浦和フットボール通信

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第13回 浦和4校サッカー部OB交流会 「浦和サッカーとは何か?」

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終戦直後の昭和20年代から50年代まで、全国を席巻したサッカー王国の寵児たちがURAWAのピッチに帰って来た。13回目を迎えた「浦和4校サッカー部OB交流会」の模様と、往年の名手たちに「浦和のサッカーとは何か」を訊いてきた。(浦和フットボール通信編集部)

「埼玉を制するものは天下を制する」という言葉が生まれるほどの歴史がこの街にはある。その言葉を支えたのが、浦和4校の浦和高校、浦和西高校、浦和市立高校、浦和南高校である。

浦和高校の昭和24年東京国体優勝を皮切りに、昭和32年には、浦和西高校が全国制覇、昭和34年に浦和市立が東京国体に優勝。昭和42年に浦和南高校が埼玉国体で優勝を果たし、浦和の公立4校が全国優勝を幾度も獲得をしてきた。

しかし浦和勢としては昭和52年の浦和南の全国制覇以来、埼玉県勢としても昭和56年の武南高校の選手権全国制覇以来、遠ざかっている。そんな埼玉、浦和の高校サッカーの復活を期待し、支援していこうと企画されている「浦和4校サッカー部OB交流会」が、9月23日にレッズランドで開催された。この交流会では、Aチーム(50歳以上)とBチーム(35歳以上49歳以下)のカテゴリーに分けられて、それぞれが4校の頂点を目指した。4校で活躍した往年のプレイヤーが集結して、劣れぬテクニックを披露するなど、会は大いに盛り上がっていた。

浦和レッズのモヤモヤするホームゲームを見た後だっただけに、このサッカー街が脈々と受け継いできたサッカーをレッズはどのように体現が出来るのか、と考えて、まず往年のプレイヤーたちに「浦和のサッカーとはなにか」を訊いてみたいと思った。

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『赤き血のイレブン』として、浦和南高校で高校三冠を達成した永井良和さんに、『浦和のサッカーとは何か』を尋ねてみた。

「うーん、一言で言い表すのは難しいなあ。自分が思うのは、オーソドックスで、基本に忠実なサッカーかな。それは昔からそうだよね。今、目の前でボールを蹴っているOB達も技術がしっかりしているでしょ?体力は衰えているけれども、技術は衰えないからね(笑)」。

南高が強かったのは、その基本技術に裏付けられていたものがあったのだろうか。

「僕らの世代よりも上の人たちが全国制覇を果たして、他の県に比べてもサッカーが盛んで、優秀な指導者がいたことも大きい。僕らが現役の頃は、松本暁司監督の魅力もあって、浦和の中学校のエース級の選手はみんな浦和南高校に集まってきた。松本先生の練習方法の勝つための戦術なども含めて、他の県よりも進歩していたと思う。加えて選手達も、小さい時から、みんなサッカーボールを蹴っていたということもあって、基本技術が鍛えられていた。他の地域と比べて、様々な要素でサッカーにおける差が相当あったと思います。実際に、浦和の中で勝つのも大変だったわけですし、さらに埼玉の予選でも川口、児玉という強豪校があり、全国で戦うよりも大変でしたから」。

浦和は、優秀な指導者、環境が他の地域に比べて先進的だったこともあり、圧倒的な強さを見せていたが、近年はその状況も全国で均衡化し始めている。先日の浦和南高校の野崎正治監督のインタビューでもその難しさについて語っていた。

「指導者、環境のレベルは全国で均衡化しているので、今の時代に全国制覇を目指すのであれば、選手を集めないと厳しい。私が指導を行っている千葉では、高校では、流経と市船という強豪校があるけれども、千葉県内の優秀な子はその学校に行く流れは出来ています。さらに流経、市船ともに全国的にも選手が集まる学校にもなっています。現在の浦和南高校は進学校だから、学力を考えても選手を集めるのが難しいのかもしれないですね。そういう意味では、市立船橋も、体育科があるのでスポーツ推薦で入ることが出来る。普通化とは、教科書も授業の工程も違うので、例えば、遠征があっても単位になるというシステムになっているそうです。浦和南高校も同じ市立高校ですから、体育科を作ることが出来れば良い流れが作れるかもしれません」。

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浦和高校サッカー部のOBで、現在、ニュースキャスターとして活躍している、堀尾正明さんにも、浦和でのサッカーの思い出を聞いた。

「私は、浦和西高の西野朗さんと同じ年代でした。僕の一個上は、浦和市立が全国優勝を果たしていて、3個上には、永井良和さんの赤き血のイレブンがいて、それに憧れてサッカー部に入った人も多いんじゃないかな。そんなサッカー熱がある中で、浦和高校では、ウイングのポジションを任せられていました。埼玉県予選では、児玉高校に準々決勝で負けてしまいました」。

各メディアで「浦和はサッカーが盛んな街だ」と伝えているという堀尾さんに、浦和サッカーとは何かを訊いた。

「僕が現役の頃は、浦和市大会が全国大会をやるよりもレベルが高かった。戦後を見ると、20年間で、10回くらい浦和が全国優勝をしている。それだけのサッカーの熱があったのが、浦和サッカー。そう考えると、それが聞くことが出来ない現状には、寂しさを感じますね」。

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第51回全国選手権大会で全国制覇を果たしている、浦和市立サッカー部OBの倉又泰弘さんにも浦和のサッカーとは何かを訊いた。

「浦和のサッカーは技術的には今と変わらないレベルがあったと思います。サッカーも中盤でショートパスをして、そこからサイドに振ってのオープン攻撃。『コーナーフラッグにめがけて蹴れ』というのが僕らの鉄則でした。サイドには、ウイングがいたので、彼らがラインの外を走るようにして、そこにボールを出すサッカーでした。浦和市立は、ディフェンスラインに、スイーパーを置いていたので、堅守即効というイメージもあったと思います」。

倉又さんは、現在にも続く浦和のサッカー精神についても教えてくれた。

「市立の伝統は『最後まで諦めない』という、今の現役選手にも続く精神があります。そのための練習もしましたよ。最後の一歩が出なくても『そのボールに行け!』と監督には指導を受けました。それは最終的に、試合に活きました。あとは切磋琢磨ですね。僕らの上の世代は浦和高校に絶対に負けたくないという気持ちでやっていたし、僕らの世代は西高と南高には負けたくないという気持ちでやっていた。「埼玉を制する者は天下を制する」の前に、「浦和を制するものは天下を制す」という気持ちがありましたからね」。

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その他にも「浦和を背負ってプレーする以上は、他に気持ちで負けることは許されないという思いでプレーをしていたよ」という声も聞くことが出来た。これは、レッズも体現し続けて欲しい部分。かつて浦和でプレーをして、後に監督にもなったゼリコ・ペトロヴィッチは『もしも、レッズで戦うことになったら、レッズを愛さなければならない。 レッズを愛するものは100%プレーしなければならない。』という言葉を残している。外国籍選手はその地域の風土を感じて、理解してプレーをしてくれることが多い。それがフットボールであるからだと思う。ゼリコ・ペトロヴィッチが残してくれた言葉にはURAWAの精神に繋がるものがあるのではないかと思っている。

最後に倉又さんが話してくれた言葉をご紹介したい。

「私は教師をしていたので、自らがサッカーで習得した諦めない気持ちの大切さを子供たちに説いてきました。さらに運は自分たちで運んでくるものなんだということを子供たちには伝えてきました」。

この街の情熱は今後も絶やしてはいけないものであり、この地域のトップカテゴリーに存在している、浦和レッズには、サッカーを通じて、色々なものを伝えていってもらう存在になってもらいたい。浦和のサッカーが作ってきた文化を改めて感じることが出来た「浦和4校サッカー部OB交流会」だった。

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