浦和フットボール通信

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浦和への伝言2015 大原ノート – vol.17 見沼通船堀

浦和一女高OGのおふたりが、駒場~大原~浦和美園を巡る郷土の自然や史跡を楽しく散策します。

通船堀2

すっかり梅雨が明けてしまいましたが、通船堀に行ってきたのはまだ雨が降ったりやんだりの日でした。遅すぎのアップになりますが、実は通船堀最大のイベントである「見沼通船堀閘門開閉実演」が今年は8月26日(水)に予定されていて、これに間に合うようにご紹介したかったんです。

「通船堀」がどういう構造のものかというのを説明すると長くなってしまうので、詳しくは別のところをご参照ください。簡単にいえば水位差のある芝川と見沼代用水の間に船を通すため、「閘門」を設けた運河というところです。開削の指揮をとったのは、見沼に関わることはこの人なしにはすまない、という井沢弥惣兵衛為永さん。あの暴れん坊将軍吉宗様のご家来です。見沼の干拓と代用水の開削を一気に指揮した、武士というよりは土木事業の第一人者といった方です。

通船堀4

 

その方がさらに通船堀まで作ったということで、見沼に関する事業というものの壮大さがやっと見えてきたように思います。見沼を干拓し灌漑用水として代用水を開削することで新田開発と治水を行い、通船堀により代用水と芝川を水運にも利用する。さいたま市東部に新たな経済圏が出現したことでしょう。現代人は地図を鉄道や高速道路といった陸路で見てしまいますが、江戸時代の物流の主役は水運です。関東平野の地図を水路で見てみると、今まで見えなかった人や物の流れが見えてきます。利根川の流路だって実は江戸時代に幕府が変えたのですからびっくりです。

■見沼代用水は普通の川とは逆に、途中の田んぼに水を供給してだんだん細くなっていきます。大原の練習場あたりではたっぷりとしていた代用水西縁も、東浦和周辺で西へ向かい、コンクリートで囲まれた目立たない流れになります。さらに暗渠になって地上からは見えなくなり、最後は細々と荒川に落ちるようです。これでは船は通れません。逆に田んぼの排水路である芝川はどんどん太くなり、荒川、隅田川へと続いています。通船堀のある位置は水量から言っても適地です。秋、たっぷりと収穫された見沼田んぼの年貢米は、代用水を下り、通船堀で芝川に出て、さらに隅田川、ここはもうお江戸。蔵前の幕府の米蔵まで陸路に比べたらあっという間です。

通船堀3

空になった船はお江戸から細工物や肥料(江戸はリサイクル都市ですからね!)を運んだとか。よく考えられています。どこかの中途半端な高速鉄道やすったもんだの競技場建設とは違いますねえ。そういうところは武士のお仕事、命がけの責任感を感じます。通船堀の開削は1731年、明治以降、陸路の発達で徐々に使われなくなったとはいえ、正式に廃止されたのは1931年。2000年も使われているローマの水道橋や下水道に比べれば大したことはありませんが、公共事業というものはせめて100年単位で使えるように考えてほしいですよね。

今の通船堀界隈は美しい孟宗竹の林や大きく茂った木々で夏でも涼しいことでしょう。江戸時代の土木工事といっても、壮大なお城の石垣や堀に比べれば通船堀は地味な史跡です。でも、戦いや権威のための構造物よりもずっとずっと人々の暮らしを豊かにする役に立ったことでしょう。石で補強されているわけではない、地面を掘っただけの通船堀は整備し続けなければあっという間に荒廃してしまいます。今年は8月26日、1日だけ通船堀は生き返ります。史跡というハードだけでなく使い方というソフトとともに、この地で暮らした人々の面影を伝えっていってくれたらうれしいですね。

通船堀1

 

 

文/百瀬浜路(ももせ・はまじ)
東京都生まれ。埼玉大学附属中学、浦和一女高、多摩美術大学卒業後、(株)世界文化社に入社。保育園、幼稚園のための教材企画、教材絵本、保育図書の編集に携わる。ワンダーブック等の副編集長などを経て、同社ワンダー事業本部保育教材部副参与。2015年1月をもって退職。保育総合研究会会員。蕨市在住。

写真/黒木葉子(くろき・ようこ)
川口市生まれ。埼玉大学附属中学、浦和一女高、千葉大学工学部写真光学科卒業。大学在学中から研究テーマとしていた撮影技術を生かしフォトグラファー、イラストレーターとして活躍。セツ・モードセミナー勤務を経て、現在フリーランス。川口市在。

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