浦和フットボール通信

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Devotion to URAWA – 帰ってきた浦和の柱 – 柱谷幸一GM

帰ってきた浦和の柱

柱谷幸一 GM

■巡り合わせと必然から生まれる
 初代浦和のキャプテン柱谷幸一さんが、16年ぶりにGMになって、浦和に帰って来てくれた。これは、浦和にとって大きな力でもあり、選手はもちろんサポーター、浦和を愛する全ての人達にとって大きな心の柱となると確信している。

そもそも、Jリーグが出来る時、三菱にとって浦和は全く縁もゆかりも無い所だった。それを当時、森孝慈さんと浦和の人達の尽力で浦和レッズが誕生した訳だが、当時を振り返り柱谷さんは「三菱が浦和に来て浦和レッズになったって、凄い巡り逢わせなんだよね!浦和に三菱の工場が在ったのなら繋がりで此処に来たんだって思えるけど、この巡り逢わせって凄い事なんだよ」と力強く話す。

しかし、当時の柱谷さんは日産自動車の選手であった。日産の柱谷さんが浦和に移籍して来たのも巡り逢わせである。「実はねぇ~Jリーグが出来る時に、ヴェルディとフリュウゲルス、レッズとオファーがあって、レッズに決めた大きな理由は森さんの存在だった。18歳のユースの頃から代表もずっと一緒で教えてもらってその存在は強かった」と柱谷さんは話す。色々な巡り合わせが絡み合い、J発足当時に浦和の柱谷選手が誕生したのだ。

浦和に三菱が来て、その浦和の選手に柱谷さんがなり、引退後にGMと言う形で、また違った立場で仕事をする事になったのは、全てを「巡り逢わせ」と言う一言で片付けられない様な気がする。全ては人と人との繋がりを大切に思いフットボールを愛する情熱と気持ちがあったからこそ実現した事だと感じた。

そんな柱谷さんの現役時代、浦和は勝てなかった。柱谷さんは「10チーム中最低・・・。自分自身も怪我でほとんど試合に出れずに、苦しいシーズンだった。それでも、負けても々サポーターは来てくれた。まぁ~毎試合後バス囲まれたけどね、応援に来てくれるって有難かったし、勝てないって事が申し訳なくって、自分がやらなきゃって思って、焦って治して、また怪我しての繰り返しだった」と当時の苦しい時代を苦笑いしながら振り返えった。あの時代、柱谷さんは、勝てないチームのキャプテンとしての責任感、そしてサポーターに対する感謝の気持ちを何とか勝利と言う形で届けるために必死になって闘っていた。

だから浦和に再び帰って来た時に「浦和の皆さんが誇れるチームにしないといけない」と選手時代とは違った立場で決意したのだ。36歳で引退して指導者を目指そうと思った時に、「結果、内容、フェアプレー」この3つを掲げたそうだ。「ただ単に勝てば良いだけじゃない。レッズは強いけど汚いファールが多いとか、良いサッカーしてるけど勝てないよねとか、他所のチームのサポーターにとやかく言わせない。強いし、フェアーだし、良いよなぁと他所のチームのサポーターが羨ましがる様にしたい!今のレッズにはこの3を達成出来るポテンシャルがある。現場の最高責任者の監督には、100%信頼して、現場の権限をゆだねる。責任を持って目標達成出来るようにやって下さいと言っている」と柱谷さんの熱い思いを聞いた時、思わず胸が熱くなった。正しくそこには、赤き血の浦和の魂が込められていた。

柱谷さんが今年、このタイミングで浦和に帰って来たのは、巡り合わせではなく、今の浦和にとって無くてはならない存在だからだ。選手時代に達成出来なかった事を、違ったピッチで浦和のために闘っている。レッズが誇れるクラブになるために・・・。

Profile 河合貴子  92年よりJ:COMさいたま「REDS GET GOAL」のパーソナリティを務め、浦和レッズを中心に取材活動を行っているフリーアナウンサー。「貴ねぇ」の愛称でサポーターからも親しまれている。指導者資格(財)日本サッカー協会公認C級ライセンス取得。

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