浦和フットボール通信

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【取扱説明書コラム】「京都で育ち、京都で愛された」駒井善成(雨堤俊祐)(2016/1/9)

浦和レッズに2016シーズンから新加入する選手はどんな選手なのか。前所属チームの番記者による取扱説明書的コラムをお送りします。第3弾は、京都サンガF.Cから移籍してきた駒井選手。

局面打開するプレーがストロングポイント

身長170cmに満たない小柄なアタッカーの最大の持ち味はスピードとドリブルだ。敵陣でボールを受け、俊敏性を生かしたドリブルで果敢に仕掛けて局面を打開するプレーは少年時代から変わることのない、彼のストロングポイントだ。

リーグ戦前日の練習後には、居残り練習で人に強いDFの選手を捕まえて1対1を繰り返すのがルーティーンとなっている。右サイドでも左サイドでもプレーできるが、近年は左サイドを勤めることが多かった。運動量もあり、試合終盤でも敵陣へ向かって、もしくは守備で自陣に戻るためのスプリントを惜しみなくできる選手だ。

戦術眼については京都U-15までは“サイドに張って、ボールを受けて、ドリブルを仕掛ける”という典型的なサイドアタッカーだったが、京都U-18では中盤センターのポジションを経験するなど状況認知と判断に磨きをかけた。

トップチームには2011年に昇格。クラブはJ2へ降格し、オフシーズンに主力選手の大半が退団していた。財政事情もあって新加入選手は経験の浅い選手がほとんど。この年からチームを率いた大木武監督は積極的に若手を起用し、駒井もルーキーイヤーから出場機会をつかむことになる。大木体制の3年間はパスをつなぐスタイルに取り組んだこともあって、課題だったパスにも上達が見られる。2014年はチームの台所事情の苦しさもあり、川勝良一監督は左SBやボランチで起用。そこでも及第点のプレーを見せるなど、プレーの幅を広げていった。

そして2015年。今季の京都において、彼の存在は欠かせないものだった。序盤戦で第5節から第11節にかけて出場機会が訪れなかったのは、今季から新監督に就任した和田昌裕・前監督にベテランを重宝する傾向があったことや、過密日程の際にはターンオーバー制を採用したり、思うように勝ち星を得られないこともあって先発が固定できなかったチーム事情がある。

第12節以降は全試合でスタメン出場。副主将を任されていたこともあり、後半戦は怪我がちだった主将の山口智に代わってキャプテンマークを巻いてプレーした。

シーズン終盤はセンターハーフも任せられた

彼の特徴を説明するために、7月から就任した石丸清隆監督の下での役割や起用法を振り返ってみたい。石丸監督は就任後、崩壊状態にあった守備の建て直しに力を注いだが、一方で攻撃に多くの時間を割くことは難しかった。攻撃のバリエーションが多いとはいえない状況で、重要な役割を担ったのが駒井だ。同じ92年生まれでアカデミー出身の盟友でもある伊藤優汰と共に[4-4-2]の両サイドハーフを務め、彼らがサイドを打開してチャンスを作るのが攻撃の生命線だった。

38節・大宮戦からはポジションを[4-3-3]のセンターハーフへ移している。これは“大宮にボールを持たれる時間が長くなるだろう”という想定の元、中盤の運動量とカウンター時の推進力を確保したいという狙いがあった。アンカーを務める38歳の元韓国代表MFキム・ナミルは運動量に不安があり、駒井はキムの周辺、もしくは中盤の底からキムが引き出された際に生まれるスペースをカバーしつつ、攻撃ではドリブルを仕掛けるなど攻守で顔を出している。J2優勝を果たしたチームと試合内容でも互角に渡り合うゲームを見せたこともあり、最終戦まで同ポジションを勤めて今シーズンを終えた。

コミュニケーション能力も高いキャラクター

メンタリティーに関しては、負けず嫌いな性格だ。ドリブルを仕掛けて相手を抜けなくても下を向くことなく2度、3度と挑んでいく。また、同世代の選手たちに負けたくないという気持ちも強い。例えば京都出身の同学年に宇佐美貴史がいる。

小学生の頃、京都選抜で2人が初めてチームメイトとなった際に宇佐美は「俺より上手いやつがいる」と駒井を評したそうだ。その後、宇佐美が日本を代表する選手へと飛躍を遂げた一方、駒井は京都での地位を着実に築いてはいるが、選手としての立ち位置は離れたものになってしまった。駒井自身の口からはそうしたことはほとんど語られないが、間違いなく刺激になっており、自らの成長曲線を更に上向きにする必要性を感じていたに違いない。そうしたことが、移籍の決断にも少なからず影響を与えている。

コミュニケーション能力も高く、京都では年の近い若手だけでなく、ベテラン選手の輪にも積極的に飛び込んでいた。かつて浦和にも在籍した山瀬功治とは家族ぐるみで親交があり、2014年12月に駒井が結婚式を挙げた際、出席者に配られた号外新聞では山瀬夫妻からの「家庭円満の秘訣」コラムが掲載されたというエピソードもある。

キックの精度は課題

ここまでは彼の良い部分をピックアップした。もちろん課題もある。プレーで言えばキック精度だ。攻撃の組み立てへの関与は上達してきたが、最終局面でのキック――相手を抜いたはいいが、その後のクロスやラストパスが味方に合わせられないことが散見される。

また、決定力も高いとは言えない。京都での5年間は171試合15得点。アタッカーとしては寂しい数字だ。最終節・水戸戦の同点弾のようにパスやクロスに飛び込んでいける半面、ドリブルで持ち込んでのシュートには改善の余地が大いにある。チャンスの場面で頭を抱えた場面は一度や二度ではなく、それらは本人も自覚している。浦和では、し烈な競争が待ち構えているはずだ。プレーの質と同時に、得点やアシストという目に見える結果も必要になる。浦和では、おそらくウイングバックのポジションで実力者たちと競っていくことになるのだろう。浦和を取材しておらず、対戦相手としても近年は接する機会がなかった筆者が駒井とライバルとなる選手たちを比較することはできないが、攻守両面で戦える部分を存分に発揮してポジション争いに挑んで欲しい。

京都で育ち、京都で愛された選手

最後に、今回の移籍について触れておきたい。前述したように選手としてより高いレベルを目指す上で、京都に残って中心選手としてチームを牽引することで成長していくという選択肢もあった。しかし、J2ではなくJ1やナビスコカップ、そしてACLを舞台に戦うクラブでプレーすること、それがJリーグを代表するビッグクラブで複数の日本代表選手も在籍する浦和というオファーは魅力的だった。

一方で駒井は、京都というクラブと街に強い愛着を持っている。小学4年生から在籍し、様々な人たちに支えられながら選手として成長できた京都サンガというクラブ。生を受け、23年間を過ごしてきた居心地のいい京都という街。彼にとって理想だったのは京都でJ1に昇格し、クラブと共に自身の価値を高めていくことだったはずだが、現状はそれを許さなかった。ルーキーイヤーの2011年は天皇杯で準優勝し、2012年と2013年はJ2で2年連続3位となったが、2度のプレーオフで敗れたことでJ1昇格という夢は目前で砕け散った。2014年は中位に甘んじてしまい、2015年は昇格どころかJ3降格の可能性すらチラつく屈辱のシーズンとなった。

駒井は来年で24歳となる。短いサッカー人生において、もはや若手とはいえない年齢だ。「今(20代前半)のうちにJ1のレベルを知っておきたかった」(駒井)という思いを否定することはできない。また、今回は移籍金(違約金)と育成費(トレーニングコンペセーション)も発生し、クラブとしても彼の穴を含めた来季の補強に資金を投入することができる。そうした様々な要素を考慮すれば、このタイミングでの移籍は致し方ないといえるだろう。

駒井はサポーターから愛された選手だ。京都は育成型クラブとして下部組織からの選手供給を掲げているが、じつは近隣府県出身の選手が多く、京都府出身の選手は少ない。そんな中で彼は生粋の京都人として下部組織に入団し、トップチームでも順調に成長を遂げ、コメントの中でも京都愛を公言してはばからなかった。そうした姿を間近で見てきたサポーターは駒井を愛し、駒井もまた彼らを愛した。京都のサポーターにとっては戦力的に中心選手が引き抜かれると同時に、下部組織出身の生え抜きの代表格を選手を失うという心情的な要素もまた大きいのだ。

ここまで読んでくださった浦和サポーターの方々は「そんな京都に未練のあるやつが浦和に来るのか?」と思うかもしれないが、彼が2016年からは浦和のために全身全霊をかけて戦うことは断言できる。やるべき場所で全力を出し続けてきたからこそ、サッカー選手としての今があるのだから。まだ成長過程にある選手ではあるが、浦和サポーターの皆さんには厳しくも愛のある声援を送ってもらいたいと思う。京都しか知らない選手なので、あらゆる意味で規模が違う浦和の環境に馴染むのに少し苦労するかもしれない。知っている選手も「岡本(拓也)とU-16の日本代表で一緒だったくらい。それも、めちゃくちゃ仲がよかったわけではない」(駒井)という状況だが、きっと大原でも構えることなくチームの輪に入って馴染むことができるはずだ。あの大迫力の埼玉スタジアム2002で、駒井が赤いユニフォームを身にまとって躍動する姿を楽しみにしている。

(文・雨堤俊祐)

雨堤俊祐プロフィール

京都に拠点を置くフリーライター。京都サンガを中心に取材を行い、サッカーダイジェスト、エルゴラッソなどに寄稿している。

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