浦和フットボール通信

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25年ぶりに浦和に帰ってきたトリビソンノがサポーターに語りかけた思いとは

彼は一言ひとことを噛み締めるように僕らに語ってくれた。

2017年10月16日、冷たい雨の振る月曜日の夜の出来事。

浦和レッズサポーターにとってはシンボルでもある『酒蔵力浦和本店』の2階で和やかに宴は進んでいた。この日のために地方からやってきたサポーターもいれば、早々に仕事を切り上げてやってきた者もいた。宴の主役はマルセーロ・トリビソンノだった――。(文・吉沢康一)

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トリビが日本に来る!

マルセーロ・トリビソンノと聞いて、「懐かしい」と思ったら、あなたもかなり年季の入ったレッズ者だ。大きな身体に長髪をなびかせ、軽やかなステップから正確なインステップキック見せたかと思えば、それとは対照的に、「これでもか」と言わんがばかりの荒々しいボディコンタクトがウリのセンターバックは、最終ラインに構えると仲間を鼓舞し続けた。その姿はライオンの咆哮(ほうこう)とダブって見えて、勇ましかった。その姿とは対照的にピッチを一歩離れれば陽気な南米人で、浦和の町にも繰り出す庶民派はそのルックスに加え、優しい人柄からサポーターや子供たちからも人気は絶大だった。

10月15日、『さいたまサッカーフェスタ2017』のメインイベントは浦和レッズと大宮アルディージャのOB戦で、その試合のスペシャルゲストとして来日したのが浦和レッズ黎明期に在籍した外国人選手のマルセーロ・トリビソンノだったのだ。

僕がトリビソンノから連絡をもらったのは、8月22日のことだった。

「オラ! アミーゴ!  10月に日本に行きます。 浦和レッズから招待されたんだよ。 コウイチにも会いたいな」

僕はSNSのメッセージに目を疑った。

えっ! なんだって!? トリビが日本に来るんだって!?それが本当だったら、大事件だ!!  Googleの翻訳ソフトには感謝している。翻訳アプリに返信を打ち込むと、トリビソンノと僕は来日までメッセージのやりとりを繰り返した。

アルゼンチンでの再会

僕とトリビソンノは2001年に再会している。アルゼンチンで行われたワールドユース選手権の取材のときに、僕が会いに行ったのだ。ロサリオはブエノスアイレス・コルドバの次ぐアルゼンチン第3大きな町で、ブエノスアイレスから350キロ離れた、東京―仙台くらいの距離にあって長距離バスで約4時間のところにある。その日、僕はU-20日本代表の練習の後に、ロサリオ・セントラルの下部組織の練習を見学していた。ロサリオ・セントラルといえば、トリビソンノが在籍していたクラブである。下部組織のコーチにトリビソンノを知っているか?と訊ねると、最初は分からなかったが、思い出してくれたようで、本人に連絡をとってもらい、練習場から近いところにある、トリビソンノの奥さん(マリア)の実家に車で送っていってもらったのだ。家に着くとマリアのお父さんが出迎えてくれた。お父さんも日本に来た事があるらしく、リビングにはたくさんの写真が飾られていた。片言のスペイン語でたくさんの話をしてトリビソンノを待っていると、しばらくして浦和レッズのエンブレムの入ったトレーナーを着てトリビソンノが現れた。

彼はすぐに僕のことを思い出してくれた。

「分かるよ。アルゼンチンのインチャ(サポーター)みたいだったからね」

最高の褒め言葉だった。時間があれば夜に食事でもと誘ったのだけど、トリビソンノは「今日はいけない」と顔を曇らせてリビングを出て行った。心配して待っていると、リビングに戻ってきたトリビソンノ陽気な感じで「明日、オレが連れて行きたいところがあるので、ホテルに向かいに行くよ。大丈夫?」と逆に僕を誘ってくれたのだった。翌日、大きなレストランに連れて行ってもらった。入店が早かったからか、店は閑散としていたけれど、次第に席が埋まっていくと、その席が店でも特別な席にあると分かった。粋な計らいだった。僕らはとにかく語り合った。日本を離れてからのトリビソンノのこと。Jリーグのこと、日本のこと、アルゼンチンのこと……。時が過ぎるのはアッという間だった。そろそろ御開きにしようと会計をしようとするとトリビソンノはレシートを取り上げ、「ここはオレの町だから」と僕に支払いをさせなかった。昨日食事に誘ったときに一瞬表情を曇らせた意味がすぐに分かった。語り合いいろいろと分かった事があった。アルゼンチンに戻るとチームを転々としてプレーを続けたが、それは簡単ではなかったと。あと一年、あるいは日本の違うチームに移籍していたら……。プロの道は平坦ではない。それでも彼は泥んこになり続けても、プロサッカー選手としてプレーを続けた。

帰国してからも時々メールのやりとりをしていたが、言葉の壁もあり、その距離が縮まるのはまだ時間が必要だった。だが、ふり返れば時間の経過は早く、インターネットは当たり前で、誰もがスマートフォンというスーパーマシンを持ち、どん仕組みなのかは凡人の僕には理解できないが、日本にいても世界中の情報がリアルタイムに分かってしまう時代になった。SNSの登場により、音信不通になっていた友人との再会も可能になった。トリビソンノとも、そんな感じで「ひさしぶり? 覚えてる?」、「もちろんだよ。忘れるわけないじゃないか」というやり取りからリスタートを切る事ができたのだ。

サポーターと涙の宴

「日本に、浦和に来たいと思わない?」

そんな質問をすると「もちろん行きたいさ。今の日本を見てみたいよ。浦和レッズもね」とトリビソンノの答えは決まっていた。クラブが呼ばないなら、自分でと仲間と話をして、トリビソンノともメッセージのやりとりをよくしていた。エアチケットは長年貯めてきたマイレージを使って、日本での滞在はセルヒオ(・エスクデロ)さんに頼む。仕事を休んできてもらうんだから、ギャラも用意しなくちゃいけない。どうやったらうまく出来るかとSNSでグループを作って、仲間に呼びかけ続けていた。これはもうクラウドファンディングだなと思っていたときに、まさかの来日だったので、本当に胸踊る展開だった。

あいにく雨が降るOB戦となってしまったけれど、駒場スタジアムにたくさんのファン・サポーターが集まって、『さいたまサッカーフェスタ2017』も成功だった。トリビソンノに会いたいと懐かしい友人にスタジアムで再会できこともあり、とてもよいイベントだったと思う。何年たっても浦和レッズのユニホームに袖を通した選手は愛おしいのである。何年かすれば、そこに小野伸二や長谷部誠や田中達也も戻ってくるだろう。彼らにとっても浦和レッズは《ホーム》であるのだから。

トリビソンノの滞在は8日間。

僕もブラジル、アルゼンチン、パラグアイと南米には何度か行っているけれど、時差もきついので、一週間の滞在というのは、本当に目まぐるしく過ぎてしまうのは分かっていた。それでもトリビソンノは僕らの宴への招待を快く承諾してくれた。

楽しい時間は本当にすぐに過ぎ去ってしまう。これといって、何かをした宴ではなかったが、最後にトリビソンノに話をしてもらった。25年間思っていたことを言葉にするのは容易くない。一言ひとことをかみ締めるように、トリビソンノは僕らに語りかけてくれた。そして言葉に詰まった……。何とも形容しがたい感情を僕らは共有していた。

「僕がいるここ(浦和)は、自分の家(アルゼンチン)からとても離れているところです。
アルゼンチンはサッカーの国で、僕も人生のほとんどをサッカーに費やしてきました。
この来日で僕が経験したことを、故郷に戻ったときにどう説明したらいいのか……。気持ちの悪くなるくらい、特別な空間に僕は身を委ねています。

僕が日本にいたときですが、プレーが良いときもあれば、悪いときもあったと思います。僕はいい選手だったかもしれないし、悪い選手だったかもしれない。僕はいい人でいたかったし、チームに打ち解けたいとずっと思ってくらしていました。そういう思いが今回の招待につながったのかもしれません。

今、泣かないようにしています。

この感情をどう伝えて良いのか? 伝えるのが辛いです。(絶句)」

その瞬間にかつて若者だった一人が高らかに叫び、それに倣って会場からは大きなチャントが響き渡った。

「オッ・オッ・オッ・トリビ、オッ・オッ・オッ・トリビ、オッ・オッ・オッ・トリビ、オッ・オッ・オッ・トリビ、オレ! オレ! オレ! オレ! オレ!」

懐かしい自分のチャント瞳に涙を浮かばせてトリビソンノは感極まっていた。

「試合の中で僕はちょっと荒い選手だったかもしれません。
今回の皆さんの全ての招待ですが、僕の家族は僕の事を本当に誇りに思ってくれています。今日のような素敵な時間をみんなと分かち合えた事は一生忘れません」

トリビソンノの顔に笑みが戻った。

酒蔵力浦和本店の今井店長の粋な計らいがあった。

「トリビには大きく書いてもらいますから」
二階の厨房前の壁には大きくトリビソンノのサインが書かれている。

伊勢丹前には足型はないけれど、僕らのアイドルであり、仲間、友人であるトリビソンノは来日の足跡をしっかりとサポーターの聖地に残してくれた。

ありがとうトリビソンノ!!

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マルセーロ・トリビソンノ
現在は古巣ロサリオ・セントラルの下部組織のコーチをしている。教え子にはアルゼンチンを代表する選手の一人ディ・マリア(パリ・サンジェルマン)がいる。現サウジアラビア代表監督のバウサもロサリオ・セントラルのチームメイトだった。

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