浦和フットボール通信

MENU

浦和への伝言2011 大原ノート − vol.7 100エーカーの森

浦和一女高OGのおふたりが、駒場~大原~浦和美園を巡る郷土の自然や史跡を楽しく散策します。

vol.7〜  100エーカーの森

■ くまのプーさんと浦和の関係について、説明できる人は手を挙げて。「ええ~?」というのが普通の反応でしょうか。石井桃子先生。ここで分かった方は浦和にくわしいというよりはくまのプーさんにくわしい方なのかな。いまではディズニーキャラクターとしてのイメージが勝っているプーさんですが、日本にこの本を翻訳紹介してくださったのが石井桃子先生です。
■ 翻訳、創作で日本の児童文学界の巨星といえる石井桃子先生と、では、浦和の関係は? 単純です。石井先生は「浦和の子」なんです。浦和生まれ、浦和育ち。そして私の手元に昨年古本として手に入れた「幼(おさな)ものがたり」という、先生晩年の作品があります。1907年生まれの先生が、70歳を過ぎてからご自身の記憶の一番底にあるものをいくつかのエピソードとしてまとめた作品です。
■ それはちょうど100年ほど前の浦和、先生の生まれた家は中山道に面した金物店。場所は浦和駅から北へ向かう鉄道と中山道が交差する踏切から少し浦和寄りに戻ったところ。ああ、どこかもう分かりますね。今は踏切ではなく、陸橋になっていますが。
■ 挿絵として簡単な地図が添えられています。その地図と先生の記述によると、そのころの浦和は今ほど東西に鉄道で分断されていなかったようです。浦和橋のところにあった大きな踏切以外にも、小さな踏切がいくつかあり、幼い桃はそこを渡って東口方面へも行くことがありました。地図に記載された小さな地名「三角稲荷」、なんだかミステリアスな名称ではありませんか。

■ 黒木カメラマンといってみました。浦和駅東口から線路に沿って北へ10数分。国道463号の高架の向こうにこんもりと緑の木々の先が見えます。今でも「三角稲荷」は健在です。きれいに整備された平成の街並みのなかに、そこだけわらべ歌の世界が残っています。「かごめかごめ」、「だるまさんがころんだ」、「缶けり」そういう遊びが眼に浮かびます。小さな社の後ろで「もういいかい」と声をあげる子どもが見えるようです。

■ 実は、「幼ものがたり」のなかには、踏切を渡ってスミレを摘んだりしたとありますが、三角稲荷で遊んだ記述はありません。幼い桃にとって、踏切を渡るというのは誰か大きい人と一緒でなくては許されない冒険。そして、線路の向こうはちょっぴりアウェイだったのかもしれませんね。今、桃が渡った踏切のところには古びた歩道橋がかかっています。歩道橋から見下ろすと線路の西側には、かつてここに踏切があったことをしめす階段が土手を下っています。もちろん立ち入り禁止ですが。
■ 石井先生が文字で描いた場所を今でも訪れることができる、重大な歴史上の場所ではなく、普通の風景を追体験できる、それが浦和にあることがとてもうれしい。トレーシングペーパーを何枚も重ねるように、街にはその街で生きた人の歴史が小さくても特別ではなくても積み重なっていくのだと実感しました。だから、今度の震災でなにもかもが流され、土台の枠だけが残った町の方々の喪失感が改めて胸に迫ります。
■ これを書きながら、今、ふと気が付きました。クリストファー・ロビンにとっての100エーカーの森、それが桃にとっての浦和だったのではないか。「三角稲荷」に私が惹かれたのも、100エーカーの森の地名を思わせる雰囲気があるからではないかと。
■ その場所にあること、少しずつ変化していくけれどそこにあり続けること、それが財産です。浦和駅の改修が終わると、東西に分断されていた浦和の街にまた変化が訪れます。懐かしくも新しい、誰かの「幼ものがたり」、誰かの「100エーカーの森」として、心と現実の双方に生き続ける街であってほしいですね。でも、困ったな、大きすぎて埼スタは100エーカーの森に入らないかも!?

 

ももせ・はまじ
東京都生まれ。埼玉大学附属中学、浦和一女高、
多摩美術大学卒業後、(株)世界文化社に入社。
保育園、幼稚園のための教材企画、教材絵本、
保育図書の編集に携わる。ワンダーブック等の
副編集長などを経て、現在同社ワンダー事業本
部保育教材部副参与。保育総合研究会会員。蕨市
在住。

くろき・ようこ
川口市生まれ。埼玉大学附属中学、浦和一女高、千葉大学工学部写真光学科卒業。
大学在学中から研究テーマとしていた撮影技術を生かしフォトグラファー、
イラストレーターとして活躍。セツ・モードセミナー勤務を経て、現在フリーランス。川口市在。

ページ先頭へ