浦和フットボール通信

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浦和レッズ MF山田直輝 インタビュー完全版[1]

俺たちの直輝、浦和のハート―――。
クラブの迷走が続きリーグ戦終盤も下位に沈む浦和レッズ。そのさなかにあっても埼玉スタジアムが客席とピッチ上の一体感を甦らせるのは、この応援歌が発せられる瞬間に違いない。URAWAとレッズ。さまざまな要素から両者の「結束の再確認」が求められる現在、山田直輝という存在はこのクラブとホーム浦和が手を携えてきたJリーグ史の象徴となる必然があるからだ。
「自分も”あの頃の駒場”をつくっていた一人……」
このタイミングで対面する機会を得た取材者として、山田直輝言葉の端々にはレッズサポーター諸兄に届けておかなければならない「浦和のハート」があった。


山田直輝(やまだ・なおき) プロフィール
浦和レッズMF。1990年7月、広島県広島市生まれ。JSLマツダSC(現サンフレッチェ広島)の主力MFであった父・隆氏の旧浦和市への転任にともない幼少時よりサッカーに親しむ。小学校6年時に「FC浦和」に選抜され全日本少年大会を制覇。中学、高校生年代においてはレッズ下部組織のジュニアユースおよびユースチームに所属し、05年に高円宮杯ジュニアユース選手権、08年に高円宮杯ユース選手権を制し、育成年代におけるすべての全国制覇を達成する。その間06年にはU-17日本代表としてアジア選手権で優勝し、翌年韓国で行なわれたU-17ワールドカップに出場。浦和レッズにおいてはゲルト・エンゲルス監督時代の08年に17歳でリーグ戦デビューを飾り、09年5月には18歳で初選出された日本代表デビュー戦で本田圭佑選手のゴールを生むアシストを記録した。名門・北浦和サッカー少年団出身。故・池田久氏(埼玉師範・全国制覇メンバー)の教え子である吉川政男団長と浦和南高校OBである吉野弘一監督によってサッカーの薫陶を受けた「浦和の子」である。

「赤き血のイレブン」ジュニアとともに挑んだ、アジアの壁。

豊田:直輝君は忘れていると思うけど、私は以前に2回あなたにお会いしているんです。

直輝:あ、本当ですか?(キョトンとしている)

豊田:一度は「山田直輝を応援する会」の会合で、もう一度はずいぶん前のこと。初めて会った時ですが2006年の暮れでした。直輝君が水沼宏太君(当時U16日本代表主将・現栃木SC)や高橋峻希君とアジアユース(AFC U-17選手権)で優勝した直後。場所は北浦和小学校の校庭でしたね。直輝君が所属していた北浦和少年団の取材に伺っていたのですが、そこにあなたが濱田水輝君と一緒に自転車に乗って現われた。

直輝:ああ、北小で……。

豊田:さっそく名刺をお渡しして、挨拶させてもらったんだけどな。

直輝:(ようやくにっこり微笑んで)しょっちゅう顔出させてもらってるんで……ちょっと憶えてません。

豊田:お気遣いなく(笑)。あの時はあなたの恩師の吉野弘一監督と団長の吉川政男さんにインタビューすることができたのですが、直輝君の登場で話題はそのアジアユースでの日本代表の戦いぶりの話になった。あの大会はあなたとしても初めての本格的な国際大会だったのでしょう?

直輝:はい。初めての国際大会です。自分たちが(世界の)どのくらいのレベルにいるのかもまったく分からないまま臨んだ大会でしたから。

豊田:予選リーグの韓国戦はもちろん決勝の北朝鮮戦まで、苦しい戦いでしたね。僕はたまたまKリーグ幹部の金正男さん(元韓国代表監督)のインタビューで蔚山に行っていたのだけど、現地ではシンガポールからの中継を全試合オンエアしていた。仕事の合間にチラッと予選リーグのTV映像を観たら大激戦の連続にびっくり。すぐさまスタッフと「大会中は取材は早めに切り上げよう。夜はホテルに戻って直輝君や宏太君の日本代表を応援しよう」という取り決めになりました(笑)。

直輝:あの大会は本当に印象に残ってます。峻希や水輝も一緒で楽しかったけど、ゲーム自体は……アジアでやる国際試合ってのは厳しいな、と凄く感じました。

豊田:決勝までのトーナメントラウンドでも逆転あり、ロスタイム勝負あり、延長戦もPK戦もあって……。吉野先生とも話したのだが、ああいう連戦って相当のメンタルを持って皆で闘わないと勝ち上がれるものじゃないでしょう? あのU16代表イレブンは宏太君と直輝君が先陣を切って引っ張っているチームという印象を受けたのですが。

直輝:いや、もう全員が「絶対にワールドユースに出たい」という気持ちは強く持っていたので……僕が引っ張ったなんてことはないです。

豊田:実はね。直輝君にとっては生まれる前のことだからピンとこないだろうけど(笑)、宏太君のお父さんは地元のヒーローだったんです。TV解説で見たことあると思うけど、日本代表のストライカーだった水沼貴史さん。

直輝:はい、父親に聞いていました。ええと(しばらく考える仕草)「赤き血のイレブン」の……。

豊田:そうそう、浦和南高校が最後に全国制覇した時(77年正月)の1年生プレーヤーですね。宏太君はあなたのちょっと先輩でしたっけ?

直輝:はい、宏太君が1つ上です。

豊田:初めて会ったのは?

直輝:僕が中学3年で彼が高校1年の時。

豊田:対戦したことは?

直輝:ジュニアユースとユースに分かれていたので対戦はないです。年代別の代表トレセンで一緒になったのが最初かな。

豊田:シンガポールでもお互いに敵の裏に抜け出すコンビネーションのパターンを次々と見せていたけど、初めて会った時の印象を聞かせてください。「一緒にやれば相当いけるな」みたいな感触は始めから持っていましたか?

直輝:それはもう……。でも宏太君はプレーも上手かったけど、それ以上にとにかく明るくて。あのチームでも皆を盛り上げて引っ張る、文字通りの「キャプテン」でした。そこが凄いなあって思った。本当に宏太君がいなかったら(優勝までは)行けなかったと思う。

豊田:予選リーグ最終戦は韓国相手に「負ければ敗退」という正念場。とりわけ厳しいゲームになりましたね。

直輝:あのゲームでも最後は宏太君のゴール。あの時間になってあんな走りが出来て決められるのって凄いです。気持ちも強いんだなあと……。

豊田:でもあのゴールも直輝君のチャンスメークからだよね。

直輝:(ニッコリと)はい……。
<*編集部注:日本3-2韓国。終了間際の直輝の繋ぎから水沼の決勝ゴールが決まり、日本代表の予選リーグ首位突破が決まった>

(c)Kazuyoshi Shimizu

少年団は”わが家”のような場所。でも指導は厳しかった

豊田:宏太君のお父さんである水沼貴史さんの実家も、北浦和小学校の近くとか。明るくて強いサッカーができるのは北浦和の伝統かな(笑)。直輝君が所属していた北浦和少年団も、本当に和やかな雰囲気で練習していますね。

直輝:もう本当に地元ですから……周り中知っている人ばっかりなんで(笑)。

豊田:グラウンドの周りのテーブルに父兄の方々が手作りの軽食とか飲み物を用意して集まって試合や練習を観戦している。それこそ選手のお祖父ちゃんお祖母ちゃんまでが練習から見に来る、みたいな感じ。しかも皆がチーム情況までよく知っておられます。今日は○○君がボランチで○○君がGKで出るなんて、ファミリーやママ同士の解説まで聞こえてくる。

直輝:本当にもうそんな感じです。僕ら選手と少年団の人と同じくらい父兄の人もいるグラウンドです(笑)。練習は厳しいですけど、温かい雰囲気を感じるし懐かしいです。それはいま行ってもまったく変わらない。

豊田:素晴らしいホームグラウンドですよね、あれは。

直輝:はい。あそこに僕が顔を出すのは「うまく行っている時」か、「うまく行かない時」のどちらか。あそこに行くと、原点に戻れる気がします。良い時でも先を見るのではなく原点を見つめ直して、悪い時はサッカーの原点はなんだったのかなと想い出す……。そうするために、あのグラウンドに行く感じです。

豊田:つい先日、吉野さんにこのメルマガに登場していただいたのだけれど、監督もまんまそう仰っていました。「迷ったら北小に戻って来い」と(笑)。吉野監督はボカ・ジュニアーズのアカデミーを参考にした指導方針とのことですが、監督自身も明るいキャラクターの先生ですよね?

直輝:いや、そうでもないっす(笑)。練習の課題とか、日ごろの挨拶とかはすっごい厳しかったですから。

豊田:ああ、そうなんだ。生活指導にも力を注がれているということですか。

直輝:合宿になると特に……。挨拶を始めとした生活面のことを特に厳しく教えられました。卒団の時に(記念文集に載せる)作文を書かされるんですけど、ほとんどの子が「サッカーだけではなくて生活面のことを学びました。サッカーだけではダメだということを教えられました」って書くんです(笑)。

豊田:その文集のバックナンバー、取材の折に見せていただいた記憶があるな。なるほどね。ではサッカーの技術的な面においては? 吉野監督はひとつ抜けた才能のある子を見定めると、率先してチームを引っ張っていくメンタルに加えて得意なプレースタイルを追求するテーマを個々に与えてキープレーヤーに育てる……そんな方針を述べられていましたが、どんな指導法だったのでしょう。

直輝:僕はとにかく「できるだけ多くボールを触っていろ」と……。フッチという小さいボールがあるんだけど、それで「リフティングを来週までに20回できるようにして来い」とか、「ラグビーボールで20回やって来い」とか言われました。ラグビーボールのリフティングでは、その1週間だけでボールタッチがうまくなった感じが掴めたので、僕にはすごく良い練習法だったと思う。

豊田:監督は選手のタイプに合わせて色々な課題を与えるのだが、直輝くんは一番早く課題をクリアし、技術を吸収していった選手。そう証言されていた。しかも普通の子は出来なかったら出来ないまま戻ってくるんだけど、あなたは必ず1週間単位で出来るようになってグラウンドに戻って来たと……。

直輝:それはもう(吉野先生に言われたことは)ひたすら言われた通りにやりました(笑)。ラグビーボールのリフティングは家の駐車場でもやり続けました。

豊田:そういう意味では吉野監督は「サッカーの先生」として直輝君にフィットしていたのかな?

直輝:していたんだと思います。ここら辺(北浦和のこと)では有名な先生ですし。先生はサッカーを知っていますから。僕も言われた通りに(与えられた課題に)取り組んだことが良い関係を築くことになったと思います。先生を信頼していたし、教わったことはいまでも僕のサッカーの原点になっていると思います。

豊田:では吉川団長は直輝君にとってどんな存在? 団長さんは『浦和フットボール通信』と直輝君を結びつけてくれた影の主役なのだけれど(笑)。

直輝:団長さんは……(満面の笑顔で)ううーん、そりゃもうすっごい小さい時からの知り合いなんで……どんな存在かなあ。

豊田:もはや家族みたい?

直輝:いちばん初めにサッカーを教わったのはもちろん父なんですけど……。少年団は1、2年生は吉川さんに教えてもらうんです。でも僕はそこに幼稚園の時から入っていたんで(笑)。もうどういうことを教えてもらったかも分からない小さい時から……。自分が最初にお世話になった方かも知れません。

<山田直輝 インタビュー完全版(2)>に続く

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