浦和フットボール通信

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浦和レッズ MF山田直輝 インタビュー完全版[3]

少年団の仲間と「サポーターに見せよう」と誓ったサッカー

豊田:直輝君が「PRIDE OF URAWA」に感じている思いには、あなたが育った環境が大きく影響していると思う。あの言葉は、その後のJのスタンドに数多く登場した「俺たちの誇り、○○」と言った応援スローガンとは一線を画しているのです。住民がグラウンドに集まり、子どもたちがサッカーと出会い、様々なことを学んで成長する。そこには成功も挫折もあるけれど、それを何世代にも渡って掲げ続けて来たという”サッカーの街”の継承が込められた言葉なのだから。で、これは小野伸二君の出身地である静岡も同様なんですね。直輝君も小さい時から遠征させられたと思うが(笑)、静岡で育った小野君は若くしてそういう側面を察していたと思います。

直輝:はい(頷いている)。

豊田:想像するに、あなたのサッカーの記憶も通っていた幼稚園や小学校を舞台として始まっていると思いますが、いかが?

直輝:そうですね。(自分が少年団に入ったのも)泥んこ遊びをしていた時に、サッカーをやっていた兄に「やらない?」と誘われて、その日のうちに練習までやらせてもらった……それがきっかけになりました。どっちにしてもサッカーはやったとは思うのだけど、普通は小学1年生しか入れない少年団に、僕は(幼稚園の)年中の頃には入っていたので。

豊田:直輝君のお父さんも日本リーグで活躍をしていた名選手(元日本リーグ・マツダSCの主力MFであった隆氏)。一緒に観戦したレッズ戦では、やはりレッズを強くしたいという思いはお父さんにもあったのでしょうね。

直輝:それはもちろん、父の中にも強くあったと思います。まあ、僕を育てて(レッズの選手にして)浦和を強くしようとまでは思ってなかったでしょうけど(笑)。ただサッカーでやって行くなら、父もこのチームでプレーをして欲しいとは絶対に思っていたと思う。

豊田:うんうん。

直輝:何というか……(宙を見るような仕草で)そういう風に育てられていますから。だから、僕はレッズというクラブ以外でプレーをすることは考えられない。このチームでプレーできることは幸せだし、このチームを優勝させることが夢です。

豊田:なるほど。しかしあの時代、小野君や福田正博さんを擁し、あなたがお父さんと応援した浦和レッズはJ2降格も味わう結末になります。私自身もそうだったのですが、ホーム浦和は市民を上げて”サッカーの街”の復権を目ざした。「URAWAに本拠を置くトッププロのクラブが、これで良いはずがない」と……。こういう思いは直輝君の師である吉川団長や吉野監督を始めとする地元指導者にしてみれば、ひとしおのものがあったと思うのです。

直輝:(再び黙って頷いている)

豊田:それからしばらく経った頃でしたね。MDPの清尾淳編集長から「豊田さんは一度ジュニアユースをご覧なさい。地元出身の中盤の4人を中心に、凄く面白いサッカーをやっているから」と情報を頂いたのは……。そして、あなたを始め峻希君(朝霞三原FC出身)、田仲智紀君(道祖土少年団)、永田拓也君(三室少年団)の名前を知り、ジュニアユース選手権であなたたちの「凄く面白いサッカー」を目にすることになりました。

直輝:少年団で対戦したメンバーとレッズのアカデミーで(再び一緒に)やれたのは……うん、嬉しかった。

豊田:でしょうね。少年団すなわち小学生時代から知っている地元メンバーと浦和レッズで顔を合わせ、揃いの赤のユニフォームでピッチに立つというのは。

直輝:(再び、満面の笑顔で)はい。

豊田:観る側も、Jヴィレッジのファイナル(05年日本クラブユース選手権決勝)で当時全盛を誇っていた横浜Fマリノスを完璧に打ち破るプレーには驚かされました。県下の中学生年代も、こういうイマジネーションでフットボールを表現できるようになったのかと……。咄嗟のタイミングでノールックパスを出そうと、トリックプレーでボールを残そうと、走り出てくる味方の動きにピタリと合う。まさかと思うスペースに走りこんでも、そこに連携のボールがちゃんと返って来る……。

直輝:そういうプレーが僕のプレースタイルですし、(あの時のユースチームの)皆のやりたいサッカーともフィットしていました。

豊田:峻希君や元気君とはアカデミーに所属する以前に対戦したことはあったのですか?

直輝:原口とは対戦したことがあったけど、峻希はありませんでした。(埼玉県の)県南トレセンで会っているはずなんだけど記憶になかった。向こうは覚えてくれていたんですけど。で、そのあとに元気(江南南)も岡本拓也(道祖土少年団)も入って来て……力を合わせて高円宮杯(08年ユース選手権)を獲ろう、となりました。

豊田:あの埼玉スタジアムの決勝はもはや語りつくされていますね。支持者の間では見ていないサポーターはニワカということになっている(笑)。

直輝:あのメンバーでやる時は試合前から勝つのが前提でしたね。あとは楽しくサッカーができればと……。

豊田:印象的だったのは4点目のFKのシーンです。まだ前半なのにボール周りに集まったあなたや原口君、田仲君、峻希君が満面の笑顔(笑)。オールドファンの私にはかつて見た歴代の「浦和の高校イレブン」たちの表情が甦る気分でした。楽しいばかりで負ける気なんてしないでしょう、ああいう場面は?

直輝:みんな「オレが蹴る」「いや、オレだ」って(笑)。トモ(田仲)をキッカーに決めて峻希は相手の壁に割り込んで、僕と原口は走り出した。けれど、あれってサインプレーじゃあないんです。あの位置のFKは(複数のパターンで練習ずみだったので)僕も原口ももらえるつもりで走ってました。みんな個が強くて我がままだったけど、連携があった。みんなで工夫して創って来たサッカーだから。口を塞いでいても一から十まで互いのやりたいプレーが分かり合えるメンバーでした。

豊田:堀監督は優勝インタビューで「僕からは選手たちに何も言っていません。黙っていてもアグレッシブにやってしまうイレブン。僕には止められない」なんてコメントしておられた。

山田:確かに堀さんは僕らに自由にやらせてくれる部分が大きかった。でもその代わり「守備は絶対にサボらせない」の意向も強烈でした。自由に攻めるためには、まず守りの集中から……それはいまも(理想的なサッカーとして)自分のポリシーになっています。

豊田:あの時のスタンドの反応も、「トップチームでもこのサッカーが見たいよな」というものでした。

山田:僕らもああいうサッカーがやりたいですし、それが出来れば見て下さるサポーターも楽しいということなのだと思うんです。

豊田:まんまトップに持ち込んで完璧に通用するかと言えばそれほど甘くはないのでしょうが、他ならぬ直輝君のその気持ち、大切にして欲しいです。

山田:よく皆さんから「あの決勝のプレーを」と言われるけど、僕らは3年間ずっとあのプレーをやって来たんです。だからファイナルの会場は埼スタと知ってからは、決勝までは絶対に負けられないと思った。「埼スタまで行こう」「凄い人数のお客さんが入るかも知れない」「そこでレッズサポーターに僕たちのサッカーを見せよう」……皆で、そう誓い合っていましたから。

“浦和のハート”の応援歌は嬉しいし、ハートであり続けたい

豊田:直輝君も原口君もトップに定着した現在、レッズは久方ぶりのシビアな局面を迎えています。当然知っていることと思うけど、客席から聞こえて来る直輝君の応援歌には、”浦和のハート”という歌詞が入っていますね。

直輝:最初に聞いた時の気持ちは……ううーん、ちょっと言葉では表せません。

豊田:言うまでもないことですが。埼玉スタジアムの客席にはホーム浦和の出身であるあなたに、精神的にもプレーにおいても心臓になってもらいたいという想いが込められていると思う。

直輝:僕のプレーの特性は皆を活かすために動き、プレーし、また皆に活かされるためのプレーに動くというものです。正直、心臓と言ってもらえる選手かどうかは分からないけど(笑)。でも”浦和のハート”の応援歌は嬉しいし、そうありたいと思いますね。

豊田:その気持ち、同じく大切にしてください。あなたのレッズの先輩である内舘秀樹さんや堀之内聖選手もプレーぶりや雰囲気からホーム浦和を感じさせてくれる選手たちでした。

直輝:小さかったけれど、僕はレッズサポーターの一人でした。サポーターがレッズ戦に何を望み、どういう浦和レッズを見たいかも理解しているつもりです。それはきっと、どんどんゴールに迫っていくプレーなのだと思う。練習でも100%でやっているけれど、埼スタでは普段はできないプレーができたりするんです。気持ちの面からも、URAWAのためにという部分は大きく作用していると思う。僕のホームタウンですし、大好きな場所ですから。

豊田:心から応援しています。今日は忙しいところありがとう。ひとつ本誌のバックナンバーをお持ち帰りください。

直輝:(椛沢佑一編集長から『浦和フットボール通信 vol.34』浦和南高三冠40周年特集号を受け取って)あ、浦和南高校……ありがとうございます。

豊田:その時のエースは永井良和さんと言ってね。日本代表でも活躍した名ストライカーです。

直輝:あ、そうなんですか?(傍らのクラブスタッフから「劇画の『赤き血のイレブン』のモデルにもなったジェフ市原の元監督」と教えられて)……うーん、知りませんでした。

豊田:いまは廃業されましたが、実家は北浦和・平和通りの八百屋さん。同じく実家が青果業だった吉野弘一監督は「永井先輩とは八百屋さん繋がり」と仰っていましたよ。北浦和小学校OBだからあなたの大先輩に当たります。

直輝:ええっ、北小の先輩なんですか!?

豊田:直輝君と同じようにやはり身体は小さく、ケガにも苦しんだプレーヤーでした。でも持ち前のドリブルと判断のスピード、ゴールへの嗅覚で得点を量産。19歳の代表Aマッチ・デビュー戦で韓国相手に同点ゴールを上げて以来、日本のエースとして君臨し続けた……。

直輝:(特集号に見入りながら聞いている)

豊田: “世界のカマモト”釜本邦茂さんや”日本人初の欧州プロフットボーラー”奥寺康彦さんがいた時代だから、永井さんも出場機会に恵まれない時期もあった。でも現役のうちから指導者ライセンスを取得するというサッカー愛に満ちたキャリアを詰まれ、最終的には17年間も日本のトップリーグでプレーして272試合出場(JSL出場試合数歴代1位)という大記録を達成しました。

直輝:(ニコニコと)へえ、……初めて聞きました。

豊田:だからね、あなたの年齢の倍以上もサッカーを見続けてきた経験から言わせてもらえば(笑)、直輝君は自分のイメージとハートを持ってひたむきにサッカーを続けていれば大丈夫。「浦和の子」は最後には必ず勝つのだから。

直輝:はい。”浦和のハート”の歌詞に恥じないプレーヤーであれるよう、サッカーを続けて行こうと思います。

(2011年9月 大原クラブハウスにて)

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