浦和フットボール通信

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ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[1] (10/26)


森孝慈元GMを失った2011シーズンに、降格危機に瀕するレッズを見守る―――
ホーム浦和に身を置く者としてこの現実は受け入れがたい。だがそうであればこそ、翻って私たちは、「レッズの父」と称された故人の遺志を忠実に検証することが肝要なのだろう。2010年8月9日に収録され、レッズサポーター諸兄から大きな反響を頂いた「森孝慈ロングインタビュー」。この録音をいま一度再生し、加筆編集した完全版を当サイト“アーカイブ”初回原稿とさせていただく。
浦和レッズというクラブがいかに誕生したか。どんな人々の熱意によって支えられてきたか。つまるところ浦和レッズが浦和というホームタウンに存在する意味とは何か……。これほどの情熱と実践に裏打ちされた肉声を筆者は他に知らない。いまは自身でその肉声を聞きとどめられた巡り会わせを噛みしめるしかない。森氏の自らの手書き修正で、指摘の再現が甘い部分を丁寧に校正したファックスをいただいた思い出を追記しておく。

コピーライター 豊田充穂

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森 孝慈(もり・たかじ)プロフィール
1943年、広島県生まれ。修道高校から早稲田大学に進み、主将として「世界の釜本」らとともに天皇杯制覇など同校の黄金時代を築く。卒業後、67年に三菱重工入社。同社サッカー部および日本代表の主力MFとしてメキシコ五輪で銅メダルを獲得した現役時代を経て指導者に転じ、81年より日本代表監督に就任。独自の観点と戦術から革新的なチーム作りを果たし、W杯メキシコ大会予選(85年)ではすでにプロ化していた韓国代表と本大会出場を賭けた伝説の名勝負を演じる。Jリーグ創成期には浦和レッズ創設のため尽力し、初代監督も務めた。横浜マリノス、アビスパ福岡でフロント経験を積んだ後、02年に塚本高志代表(当時)の要請を受けてGMとして浦和レッズに復帰。ハンス・オフト監督を擁立し、プロクラブとしてのレッズの改革に多大な貢献を果たした。常に日本サッカー界のエリートコースを歩み、浦和レッズの成長にも貴重な役どころを演じたURAWA史上の重要人物である。

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■歴史を知らなければ、「土台」はイメージできない。

豊田充穂:森さんの経歴はサッカーどころ御三家の広島県の出身。早稲田サッカーの黄金期を築き、メキシコ五輪銅メダルメンバーにして浦和レッズ前身の三菱重工サッカー部主将。指導者に転じた後も日本代表監督、そして我らがレッズ誕生後も監督として、GMとして多大な貢献を果たす……ううん、挙げ切れませんね(笑)。今日はよろしくお願いします。

森孝慈:こちらこそよろしく。

豊田:いただいた名刺はご自身のオフィスのほかに、「一般社団法人 志の会 理事長」「埼玉県障害者スポーツ協会 副会長」「財団法人さいたま市公園緑地協会 副理事長」の3つ。「志の会」はメキシコ五輪代表イレブンの皆さんが、長沼健さんの死去に際してサッカーへの志を受け継ぐために結成された会ですよね。

森:まだメディアの皆さんにはあまり認知してもらえていないかも知れないけど…… 健さん以下、当時の私たちイレブンを中心に「サッカーを通じて得た経験」を広く社会に還元させていただこうという主旨の会です。

豊田:そのほかは相変わらず我々の地元、埼玉・浦和のために尽力いただいている立場を記した名刺です。

森:そうですね。やっぱり浦和との縁は深いな。それにしても、この『浦和フットボール通信』は無料マガジンなんですか。じゃあ刊行資金はどうされているの? 広告だけ? それは大変だね。(バックナンバーの本誌に見入る)

豊田:はい。それこそ地元商店街の小さな広告主さん等にまで支えていただいて、椛沢編集長以下のスタッフで刊行4年目に漕ぎ着けております。

森:それはそれは、熱心な……。でもまあ、浦和というところは昔からこういうサッカー好きやレッズ好きな人たちのいろんな活動で支えられてきた街だよね。

豊田:おっしゃる通り、ご存知の通りのサッカーの街ですから(笑)。さて、本日はほかならぬ浦和レッズの現状に関して森さんのコメントをいただきに参りました。フィンケ政権誕生から1年半余、信藤健二TDから柱谷幸一GMへの交代あり、闘莉王選手を始め複数の主力選手の放出あり。さまざまな手順を踏んでも浦和レッズの戦績は停滞したままです。

森:うん。確かにうまく行っていないというか……苦しんでいる印象があるよなぁ。(宙を見上げ、考える仕草)

豊田:「土台づくり」を標榜してスタートしてから時間も経ちましたが、なかなか結果が付いて来ない。かつてハンス・オフトとともに劇的な変革を実現した元GMとして印象をお聞かせください。

Photo by (C) Kazuyoshi Shimizu

森:私はその「土台」という部分がどうも良く分からないのだが。土台づくりというのは、何の蓄積もない新しいクラブがゼロの状態からコンセプトを決めて始めることを指すものでしょう。レッズというクラブが改めて、いま土台づくりを宣言するというのは、何とも……。

豊田:レッズはすでにアジア王者まで経験したクラブです。

森:私もいまでは内部の近況を詳しく知る立場ではないからね。断定的なことはいえないんだけど。でも、今季ももう半ば過ぎでしょ? この時点でレッズは当然に優勝争いをすべきチーム、していなくちゃならないチームのはずなんだけどな。少なくとも私の心の中ではそう思いたいです。当のクラブが「今季はチームの土台作り」という位置づけで取組んでいるとしたら、私には少々理解しがたい部分がある。

豊田:私たちサポーターはもちろん、クラブ内部にさえ言えることと思うのですが……。ことの経緯や前提を知らなければレッズの「土台」の意味は理解できないし、そこに疑問も抱かないと思うのです。その隙間を森さんの証言で埋めて行きたい、というのが今回インタビューの主旨です。

森:順番にお話しよう。塚本社長(高志 当時浦和レッズ代表)から協力要請をもらったのはGM就任の2002年の前、まだ01年のシーズンが続いている終盤でした。うん、Jリーグも10年目あたりに差しかかる”節目”の時でした。私はJの立ち上がり、つまりレッズ誕生までと初期の監督は担当したのだけれど、その後は浦和を離れていた。横浜マリノスでGMをやり、その後アビスパ福岡でアドバイザーをやっている頃でしたね、レッズからお話をいただいたのは。

豊田:私たちが降格を経験し、J1に戻ってきた直後のタイミングでした。

森:そうだったよね……うん、レッズのあの降格劇にはビックリというか、私もショックでした。で、その後も外から見ていて、もっとやれるはずだ、やりかた次第でもう少し改善できるのでは、という思いは持っていた。そこに塚本さんからね、まあとにかくレッズの現状を変えてタイトルを獲りたいというような電話をもらったわけです。

豊田:具体的な内容は?

森:クラブの基盤づくりをやりたいから、レッズに帰って来て協力して欲しいと……。そうそう、まさに「土台づくり」の要請ですよ(笑)。「プロチームとして10年近くになるのにレッズというクラブには積み上げてきた成果というものが全くない。毎年毎年、着実に成果を上積みできる組織にしたい。まずは基礎からしっかり指導できる監督探し、それが最初の仕事になる。ぜひGMとして協力して欲しい」、そんな内容の言葉でした。浦和への思い入れは強かったし、やりがいある仕事と考えてお受けしたわけです。同年12月7日にGMとしてレッズと契約し、初仕事がハンス・オフトとの契約交渉でした。

■「改革の実績」で決めたハンス・オフト招聘。

豊田:強く感じるのは「クラブ内部のプロとしての組織を固める」という視点から考えるのなら、塚本さんの体制下で森さんとハンス・オフト監督のコンビが行なったこの年の「土台づくり」の方が、意義もアナウンスもずっとはっきり発声されていたことです。ファンにも分かりやすかったし、ナビスコ制覇という初タイトル獲得の成果も残した。この時期をきっかけに、レッズが内部の意識においてもクラブのイメージにおいても「弱小時代の悪循環」から脱したことは明らかで、この前提がなかったらアジア制覇にまで続くレッズの成長はなかったと思う。代表自らがクラブ体質を変える意思を示し、その意を受けて森さんがGMに抜擢され、監督としてオフトを招聘する……非常に整理されたプロセスを経験したわけですから。

森:うん。ああいうカタチをね、もう少し続けられていたらな、という気分はあるよね。

豊田:以下は森さんが就任した02年のシーズン初頭、「語る会」における塚本社長のコメントです。「いままでのレッズには成長への指針とスタッフの意思統一がなかった。森君に”レッズの憲法”を作ってもらい、ハンス・オフトと共に日本一のサポーターの期待に応えるチームを作って行きたい」。監督選びまでのエピソードまで披露してくださいましたね。「森君が『監督はオフト』って言ってくれないかなあと思っていたら、その通りに名前を上げてくれた」と……。

森:あはは、そうだったけ。塚本さん、そこまで言ったんだ……。

豊田:当時、レッズのドキュメントも執筆させてもらっていたので間違いありません。メモも残っている(笑)。会場は埼玉会館の小ホールだったんですが、とにかく詰めかけた500人のファンの様子が印象的でした。全員が息を飲み、塚本さんの一言一言にヒザを乗り出す状態。「今度こそレッズは変われるかも知れない」という期待が充満した客席だったんですけどね、あれは(笑)。

森:(盛んに頷いている)

豊田:それまでの「語る会」でも会場が静まり返る時はありましたが、違う意味でシーンとなってしまうような場面だったりしたわけで(笑)。さらに、塚本社長に続いてステージに登場したオフトの就任宣言が以下です。「レッズの急務はスタイルの確立。どのようなサッカーをやるのかという意志をクラブ全体で共有し、サポーターにスピリットを感じさせるゲームを見せることがノルマと考えている」……10年を経てこういう内容を復唱することは、レッズ支持者として何やら悲しい気分なのですが。

森:なるほどね(苦笑)。翌年(02シーズン)に向けてはオフト監督、ヤンセンコーチの体制を固めてスタートした。ところが半年後には親会社(三菱自工)より社長交代の辞令が出て、犬飼社長に交代となるわけです。あまりにも期間が短すぎて、我々も「おや?」という気分が強かったのだけれど。塚本さんとしても「志なかば」の辞任をどう受け容れたのだろう。忸怩たる思いもあったのでは……。犬飼さんも種々の計画実行やチームの強化という面でも大きな功績を残されたけど、組織としての経験という意味ではね、あの時塚本さんにもう少し代表でやってもらっても良かったのにな、という気分は残りました。

豊田:ともにクラブを担われたあの時点までに、森さんは塚本さんとのご面識は? レッズのことについて話し合われたことなどはあったのですか?

森:いいや、それはないです。レッズで常務をされていた頃にクラブオフィスで紹介される機会があっただけ。ただ、もちろんお名前は前から存じてはいましたよ。三菱自工時代は本社人事部におられたのだから。

豊田:すると塚本さんは、気持ちの中では森さんとハンス・オフトというラインを事前に自分でイメージされていたということになりますね。それも凄いことと思いますが(笑)。では、森さんからご覧になった塚本さんのクラブ経営の特性は?

森:クラブの代表といってもいろいろなタイプの人がいます。塚本さんに関して言えば、理想を強く持ちながらも”線引き”は本当にキッチリやる方だった。決めるべきは決める、任せるべきは任せる。自分が考える(レッズの)将来像を内外に提示した後は、監督選びにおいても「現場を預かる森君に任せる」の一言。あとは自分でイメージしている人がいたとしても口にさえ出さない。そしてそれは(GMである)私に対してばかりでなく、クラブ内の各部署、たとえば監督がいてGMがいて、強化担当がいて、育成担当がいて、あらゆる面においてキチッと線を引いていた。これは各スタッフにあるべき「責任と権限」を示し、それを自覚させることを考えておられたのだと思います。「土台づくり」と言うなら、あの塚本さんの仕事はレッズの成長のための路線をはっきり示したと私は思う。

豊田:いずれにしてもあの時期が、クラブとしてのレッズ史が大きく動いたタイミングだったと思います。

森:そうだね。塚本さんから犬飼さんに政権は交代したけれど、私自身はGMとして三年計画を作成して活動を続行していました。04年までには優勝を争う地力を持つ「大関」、それ以降は優勝争いに絡む「横綱」を目指す。しかもその力を毎年維持することが大切だと考えていた。うん、やり遂げることは出来なかったけど、一定の素地は残して退任した印象は私にもあるんですよ。レッズは常に優勝争いに加わる順位を保つ。多少の波はあるかも知れないが、落ちても5位くらいまでは確保する。これからはこういう力を維持するノウハウや経験を蓄える時期だから、自信を持ってやってくれと……スタッフや選手諸君にもそう言い残した記憶がある。結果的には03年にナビスコ制覇、04年にステージ制覇、05年にはリーグ年間2位と、クラブの成長には一区切りの成果が現われていたと思う。翌年の06年にはリーグタイトルを現に獲ってくれたわけですし。浦和の今シーズンが「土台づくりの年」と位置づけられることに違和感を持つのは、こういう経緯を踏まえての印象からでしょうね。

豊田:監督はやはり、オフトしかなかったですよね。

森:選んだ理由ですか? うん、あの時代の日本代表チームにあって、協会(日本サッカー協会)とかメディアとかの周辺までを含めて、ズバリと改革に対応して見せた監督……そういう実績を考慮した部分は当然ありました。対抗馬も考えてはいた。ブラジルの代表監督だったカルロス・パレイラ。ワールドカップ・アメリカ大会の優勝監督だよね。エメルソンなどブラジル組の主力メンバーがいたし、Jではブラジル人監督の成功例もあったので、最終局面では2人に絞って考えました。パレイラにも興味はあったのだけれど……
うん、レッズを変えるためとなればそういうネームバリューのリーダーよりもオフトしかいない。そう思った。結果は”ドーハの悲劇”になってしまったけど、あの予選(93年 W杯アメリカ大会予選)の時も「いま好調で、代表に使えるサイドバックはいないか?」なんてリクエストされて選手情報を提供したりした仲でね。私とのコミュニケーションという意味からも安心だった。

豊田:納得ですね。オフトが森さんや横山(謙三)さんの後を受けて日本代表監督に就任したのは、日本のサッカー界の旧体質がまだまだ歴然と残っていた時代。あの頃の環境下で日本代表史上初の外国人監督となり、ワールドカップ予選で韓国に勝つレベルのチームと環境をつくる改革をやってのけた監督なんですから。

森:そうそう、地ならしというかね。まだ基礎ができていないチームでいろんな情況を整理して環境を整え、若手も中心に据えて強化体制を作る。そういう手腕があったな、彼には。日本代表に加えてJクラブ(サンフレッチェ広島、ジュビロ磐田など)でも経験を積んでいた。いろいろ選べるような時代でもなかったけど、私が知るかぎり当時のレッズには最適な監督であることは間違いなかったと思います。クラブの内部情況は復帰前からいろいろ聞いてはいたけど、いざ就任となって落合弘君や中村修三君ら現場を知っている人間から詳細も聞かせてもらって……。ちょうど大学卒業の若手なども、複数入団するタイミングでもあったのでね。

豊田:聞くほどに的確なクラブマネージメントがあったことが実感できます。ただ残念なのは……昔もいまも、レッズはそういう「流れ」を持続できない……。

森:うん。そこなんだ。そういうノウハウや経験が引き継がれない。レッズはそういう問題を昔もいまも抱えている。

≪続く≫

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