浦和フットボール通信

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VIPインタビュー:対談 犬飼基昭×轡田隆史(1)(10/18)

停滞したままのクラブ情況。そしてその影響に支配された戦績に終始してしまった今季のレッズイレブン。重苦しいホームタウンの空気にあっては、おなじみ犬飼基昭・元代表の言葉はぜひとも聞いておきたいコメントの筆頭格・・・・。そんな思いを込めた今号の取材であったが、編集部および周囲関係者の方々の尽力にもかかわらず進行は困難をきわめた。
「もはやレッズについてお話しをする心境にない」。
元代表自身の意向が、大きな壁となって立ちはだかった。だが本誌には、すでにシーズン総括のインタビューをお願いしていた心強い援護の存在があった。犬飼元代表の浦和高校サッカー部の先輩にあたるコメンテータ・轡田隆史氏(元朝日新聞論説委員)である。
「轡田先輩とURAWAの未来を模索する取材の場であるならば……」
一転して快諾の報を受けた。難しい情況下で登場いただいたお二人と関係各位の努力に感謝しつつ、王国全盛期を担った両氏のホームタウンへの提言をお届けする。  

轡田隆史(くつわだ・たかふみ) プロフィール
1936年、東京都生まれ。埼玉大学附属中学、県立浦和高校、早稲田大学の学生時代を通してサッカー選手として活躍。特に浦和高校1年時にはRWとして国体、高校選手権の二冠で全国制覇を達成。語り継がれる69連勝の立役者となり、同校サッカー部の黄金時代を築く。早大卒業後は朝日新聞社に入社し、社会部デスク、欧米・中東特派員、編集委員などを歴任。一世を風靡した『ニュースステーション』を始め『スーパーJチャンネル』(いずれもテレビ朝日)の名コメンテータとしても人気を博した。『いまを読む名言』など著書も多数。さいたま市中央区在住。

犬飼基昭(いぬかい・もとあき)プロフィール
1942年、浦和市生まれ。浦和高校時代に日本ユース代表に選ばれる。慶應大学体育会ソッカー部では、4年時に主将を務める。1965年に三菱重工に入社し、サッカー部でプレー。現役引退後は三菱自動車で欧州三菱自動車社長などを歴任し、2002年に浦和レッズ社長に就任。浦和レッズを優勝に導く。2008年に日本サッカー協会会長に就任。2010年に退任した。

【“サッカーの街”の矜持を理解していた旧浦和市民】

豊田:今回は当ウェブおよびメルマガ読者の皆さん待望のお二人の登場です。戦直後の浦和高校において地元と日本サッカー復興に親子二代で携わられた轡田さん(*編集部注:轡田氏の父は元日本代表選手で浦和高校コーチであった三男氏)。Jリーグ創設後初めて、地元の浦和レッズを日本のクラブチームをアジアの頂点に向かう道すじをつけた犬飼さん。それぞれの立場からURAWAサッカー史の重要部分を担ったお二人の対談が実現したことを嬉しく思います。轡田さんは朝日新聞において論説委員などを歴任された後に『ニュースステーション』(テレビ朝日)などの報道番組でおなじみのコメンテータ。犬飼さんは言わずと知れた浦和レッズの元代表ですが、若い年代のレッズサポーターのために、まずはお二人の繋がりからお話を始めましょう。実は犬飼さんと轡田さんは浦和高校の同窓で6学年違いの先輩後輩なのですね。

犬飼:そうなんです。OB会などではたびたびお目にかかっているのですが、こうして膝を交えてお話しするのは恐らく始めて。轡田先輩、ひとつ今日はよろしくお願いします。

轡田:(思わず笑いながら)いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。今日は懐かしい思い出話から浦和レッズの昨今の情況まで、犬飼さんと直々にお話しできるとあって楽しみにして参りました。

豊田:さて、これはレッズファンもほとんど知らないエピソードと思うのですが……。そもそも犬飼さんは、轡田さんの昭和29年の選手権全国制覇における凱旋パレードを見たことが動機となって「浦高でサッカーを」の意向を固めた、と専門誌のインタビューでコメントされておられます。

犬飼:はい。その通りなんです。当時私は高砂小学校の5年生でしてね。浦高が選手権の全国大会で優勝して凱旋パレードが中山道で行なわれると聞きまして。これは見に行かなくっちゃと沿道まで見物に出かけたわけです。もうずいぶん古い話になっちゃったけれど、あの時の轡田さん以下のイレブンの勇姿が忘れられない。いまでも鮮明に覚えていますね。

豊田:犬飼さんのことですから、当時から当然サッカー少年だったのでしょう?

犬飼:いや、それが実は野球とサッカーの両刀使いでね。小学校では両方の選手になって、校内大会などでは出ずっぱりでした。スポーツには目がない子どもだったんです。駆けっこが大好きでサッカーやるわ、野球もやるわ(笑)。ただ浦和高校の優勝イレブンが行進したあの中山道沿道の興奮は子ども心にも特別だったのでしょう。中学(岸中学)からは部活も一種目しか許されていなかったので、そこからは迷いもなくサッカーひと筋になりました。

豊田:しかし犬飼さんが野球もやっておられたとは……。

犬飼:どっちにしようかと迷っていました。僕は中学の頃から、浦和高校の部活は野球もサッカーも間近に眺めていましたからね(笑)。でも何しろURAWAは当時から絶対的なサッカーの街だったから。思い切り、それも勝つためにやるならサッカー。それしかありませんでした。

豊田:轡田さんは犬飼さんのこの「中山道パレード目撃」の証言は当初からご存知だったのでしょうか?

轡田:いやいや(盛んに手を振りながら)、まったく知らない。初耳と言ってもおかしくありません(笑)。それこそ豊田さんらマスコミに携わっている地元の若い方たちから聞くまでは全く知らなかったですよ。しかし嬉しいというか誇らしいですよね。聞くほどに光栄なエピソードですな、これは。

豊田:世のメディアは何かにつけてレッズ、レッズですから、犬飼さんの話題にしても足並みそろえて「浦和を変えたレッズの豪腕社長」的な扱いになるわけです。浦和レッズの元代表がはるか半世紀も前に、かの轡田コメンテータとこのようなサッカーの機縁で結ばれていた……私はこういう情報の方がニュースバリューは高く、遥かにフットボールの魅力をファンに浸透させるエピソードと思うのですが?

轡田:まさしくその通りですよ。URAWAの話題になると私はいつも強調するのですが、サッカーというのは経験や感動を伝承し、その教訓を糧にして次代への価値を高めてゆく知的なスポーツなのです。その重要部分にフットライトが当たっていないとしたら、それはホーム浦和として由々しき問題と思う。逆にいえばレッズを率いる代表を務めた犬飼さんのサッカー素養の一部に私が含まれていたとなれば、こんなに嬉しいことはない。あんなに泥だらけになって「縄文時代サッカー」をやっていた価値もあったというものですよ(笑)。

豊田:轡田さん自身も、このパレードはよく憶えておられますか?

轡田:うんうん、正月の選手権の後だから寒かったはずなんだけど、優勝旗を持って東京から蕨駅まで帰ってきたら、そこで全員降ろされましてね。またユニフォームに着替えさせられて「ここからは(クルマで浦和まで)優勝パレードをやる」って言うんだな(笑)。確か選手たちはその予定を事前に聞かされていなかったように記憶しているのですが。

犬飼:あはは、それは大変だったですね。ちなみに「浦和レッズがJで優勝したら必ず市内で盛大なパレードをやろう」と私が心に決めていたのも、あの体験が記憶の中にあったからなんです。私みたいにその感動を糧にしてサッカーに目覚める次代の子たちが地元から出てくる可能性はあるのだから。こういう市民やファンとの交流というのは本当に大切な物なんですよ。

豊田:私がこの犬飼さんの「中山道パレード目撃」の件を轡田さんにお伝えしたのは2003シーズンの暮れに犬飼代表とオフト監督率いるレッズが初のナビスコ制覇を果たし、北浦和公園近くの轡田さん宅にお邪魔した折と思うんです。その時に「URAWAには様々なサッカーを通じての出会いがある。父や私がサッカーでそれなりの成果を収められたのも、ホーム浦和には“サッカー知性”を育んでくれる様々な先輩や友人、そして指導者の方々との交流があったからだ」とのコメントを頂いたのですが……。ここにも轡田さんがおっしゃる“URAWAのサッカー知性”の継承を裏づける重要な1ページが有ったことが分かりますね(笑)。

轡田:身に余る光栄なお話ですよ、本当に。でも犬飼さんも身を以って体験されてると思うけど、浦和高校を中心にして我がURAWAにはそういうサッカーにまつわる文化の継承が、確かに流れているよね。

犬飼:(きっぱりと)流れています。色濃く、いろいろな歴史が幾重にも積み重なっている。そしてそれってサッカーがもたらす非常に重要な財産であると考えるわけです。

轡田:私も中学時代(埼大附属中学)には浦高の先輩、浦高時代には早稲田や立教に進まれた先輩たちにどれほど影響されてサッカーを続けてきたか分かりません。

犬飼:本当にそうです。私も轡田さんらの優勝イレブンを見て中学からサッカーに打ち込んだのですが、待ち受けていたのが池田久監督(埼玉師範全国制覇メンバー)率いる強豪の白幡中学。彼らと対戦するグラウンドでは私を名指しして「そいつをフリーにするな!」なんて言う久さんの怒声が飛んでくる(笑)。浦和高校に進んだ後はもちろんOBの轡田先輩が待ち受けていて(爆笑)校庭でも合宿所でも生活態度から厳しく指導いただきました。

轡田:母校には嫌というほど足を運んだので犬飼さんをどう教えたかは憶えていないのだけど(笑)、合宿にOBが参加して後輩の世話をするあたりは延々続いた伝統だよなあ(懐かしそうに回想する表情)。

豊田:犬飼さんは轡田さん以下の浦高先輩たちから、どのようなサッカーの要素を受け継いだと考えておられますか?

犬飼:サッカーの技術に関していえば、それは数え切れない。私のプレーヤー時代の基礎はすべて浦和高校の監督や先輩たちに身を以って示してもらったものを吸収したと思っています。それに加えて人間性とか生活面もね。浦高サッカー部の合宿といえばそれはもう語り草なんです。先輩たちから立派な振る舞いも、悪いことも(爆笑)。

轡田:あはは、まったくその通り。もちろん監督と選手、先生と生徒、先輩と後輩という序列は昔ながらのものだったけれど、学校全体を包む雰囲気は自由闊達なものでした。ただしね、その分だけグラウンド上は、本当に厳しいトレーニングの舞台だった。

犬飼:基礎技術に関しては、徹底したものを叩き込まれましたね。キックの精度、ポジションの取り方……。そうそう、先日のレッズ戦を見ていたけど、マークする相手を外側から追っかけるとんでもない守備をしている選手がいたな(笑)。あんなプレーは僕らの浦高現役時代には絶対に許されないミスでしたよ。

轡田:テレビ観戦だけど、それ、私もしょっちゅう感じる。あんな基礎が出来ていないプレーをやっていちゃあレッズの失点と負けゲームは止まりませんよ(笑)。その他にも上がったクロスに対する守備のポジションが何回失点しても修正できない部分とか、多々あると思うな。

犬飼:そういうミスというのはね。いくら技術の高い選手をそろえていようと、やはりチームとして機能する環境があるか否かという問題点にたどり着くと思うんです。そういう「サッカーをする基礎」「勝つための基礎」という点において、浦高は高いレベルでの意思統一が当時から出来ていたと思う。

轡田:浦高はね、監督や先輩のみならず、グラウンド周囲には先生方が顔をそろえているんです。それもサッカーに関わる教師ばかりじゃない。「浦和の象徴はサッカー」という意識が不文律のようになっているから、どの教科の先生もいくら練習が厳しかろうと部員に対しては容赦しない。私は数学がダメだったのだけれど数学担当が竹内先生という怖い教師でね。授業のたびに最前列の席に移らされて「サッカー部轡田、分かったな!?」をやられた(笑)。つまり地元のサッカーを代表していた浦高サッカー部員が恥ずかしい生徒であってはならない、一人前にしなくてはいけない、という意識を学校全体が共有していたように思います。

犬飼:そうそう、竹内先生、怖かったです(笑)。加えて昔のURAWAは、ファンもサッカーに関しては本当に厳しかった。県大会終盤では必ず浦和市立とぶつかるんだけど、そんな時には校庭周囲が一般の地元ファンで超満員になってしまう。

轡田:最近はレッズサポーターも大人しくなってしまった様だけれど、旧浦和市のファンの眼は厳しいものがありましたよね。これは決して「ブーイング」という概念ではないよ。厳しくも適正なサッカーの批評眼を持っていた……という意味で。

犬飼:見物の人たちの密集をかき分けてグラウンドに出た記憶がありますからねえ(苦笑)。で、そのピッチ上では割烹着姿みたいなおばさんに「そのパスじゃだめじゃない!」なんて怒鳴られたりする。あの市民からドンピシャリの叱咤を受ける緊張感といったら忘れられませんよ。近ごろのレッズ戦の埼スタ客席の比じゃあないです(爆笑)。

≪Vol.2に続く≫

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