浦和フットボール通信

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ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[最終回](12/26)

三菱とホーム浦和の間に生じたミゾを埋める作業は、相応の時間、そして何より双方の意志を再生させるプロセスが無ければなし得ないだろう。だが創成期の熱があったとはいえ、レッズ誕生までの三菱サイドのキーマンを務めた森孝慈氏の履歴を振り返れば、私たち浦和レッズ支持者に与えられた未来への使命は量り知ることができる。さまざまな障壁を乗り越え、J史上初のアジア王者にまで登りつめた人気クラブの誕生に賭けた氏の履歴を振り返る、ラストインタビュー最終回をお届けする。
コピーライター 豊田充穂 

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森 孝慈(もり・たかじ)プロフィール

1943年、広島県生まれ。修道高校から早稲田大学に進み、主将として「世界の釜本」らとともに天皇杯制覇など同校の黄金時代を築く。卒業後、67年に三菱重工入社。同社サッカー部および日本代表の主力MFとしてメキシコ五輪で銅メダルを獲得した現役時代を経て指導者に転じ、81年より日本代表監督に就任。独自の観点と戦術から革新的なチーム作りを果たし、W杯メキシコ大会予選(85年)ではすでにプロ化していた韓国代表と本大会出場を賭けた伝説の名勝負を演じる。Jリーグ創成期には浦和レッズ創設のため尽力し、初代監督も務めた。横浜マリノス、アビスパ福岡でフロント経験を積んだ後、02年に塚本高志代表(当時)の要請を受けてGMとして浦和レッズに復帰。ハンス・オフト監督を擁立し、プロクラブとしてのレッズの改革に多大な貢献を果たした。常に日本サッカー界のエリートコースを歩み、浦和レッズの成長にも貴重な役どころを演じたURAWA史上の重要人物である。

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豊田:1967年のメキシコ五輪予選で日本代表と戦った韓国の金正男選手。彼と森さんはつくづく長いご縁です。蔚山現代の監督時代にソウルで初めて会った際に「あの国立の五輪予選以来のライバルですね」と口にしたら、さっそく「いや、東京五輪後に行なわれた高麗大学と早稲田大学の対抗戦(66年)以来です」と訂正されました(苦笑)。

森:そうそう、お互い同年代でね。日韓サッカーが大変化を遂げた時代を過ごしたから。

豊田:85年のワールドカップ予選では、今度は代表監督同士として同じ東京・国立競技場で顔を合わせます。18年後の対決は今度は金監督の勝利。本大会に進出した韓国は、マラドーナを擁するアルゼンチンや強豪イタリアとの真剣勝負を体験するなど「アジアの盟主」としての地位を築いていきます。「プロ化を実現しないかぎり、日本は世界の舞台に立てない」……韓国の壁に何度も行く手をはばまれた日本サッカーの改革に向けた森さんの発声は、当時のファンの心に重く響きました。

森:あの時点での情況を見れば、日本サッカーはもう限界だったからね。このままでは韓国との差は広がるばかり。”世界”があまりにも遠いと。

豊田:結果的には7年もの歳月を要しましたが、この時点を分岐として日本サッカーはプロ化に向けての大きな流れに傾きます。そしていよいよJリーグ開幕。その前夜ともいえるタイミングで森さんの三菱と私たちのURAWAに運命的な出会いが訪れます。(注:当時の森氏は三菱重工で社業に専念していたが、日本リーグ時代のチームメイトで後にクラブの初代社長となる清水泰男氏の要請を受け、三菱のJリーグ参加の推進役に就任していた)

森:そうでした。重工から自工へとサッカー部の拠点が移る過程で、三菱の本拠はずっと本社で丸の内。活動も東京ベースで固まっており、トレーニングも調布グラウンド。社内的には「東京フランチャイズで」という要請が強かった。だからJに向けての準備としては、理想のホームグラウンドというならまずは国立競技場でした。それがだめなら駒沢競技場、江戸川陸上競技場あたりを中心に考えていた。でも、現実的には難しかったねえ。スタンドの収容能力など参加条件に合わない部分が多く、先方から断られる情況がずっと続いていましたから。

豊田:一方の旧浦和市としても、地元に三菱が来るとは想像もしていませんでした。

森:浦和は本田(本田技研)の誘致で決まり、という線が当時の常識だったものね。工場も狭山にあったし、その意味でも地元。社としての体制も方針もかなり固まっていた、という認識がありましたよ。

豊田:しかし、本田はサッカー部として静岡・浜松を本拠とする意向を表明。F1撤退も決めていた社内事情からもJリーグ参加を見送る決定を下します。つまり旧浦和市のJクラブ誘致も、対象クラブが消えたまま暗礁に乗り上げてしまう情況になった。

森:後で聞いた話ではあるけどね。ウチも困っていたが、浦和も浦和で本当に困っている最中だったそうだ。あの頃、浦和では武正君が……おっと、「くん」づけなんかしちゃいかんな(笑)武正公一先生(現衆議院議員)が発起人代表だった「浦和にプロサッカー球団をつくろう会」(1990年9月発足)が中心になってね。新田君(博利 元浦和レッズ取締役・現栃木SCGM)とか、パン屋さんなどを経営していた山口君(斉 当時浦和青年会議所理事長)がタッグを組んで、そりゃあ熱心に活動していましたよ。「今年のJC(青年会議所)のいちばんの重点事業だ」とか号令をかけたりして。

豊田:青年会議所は「サッカーを通じてのまちづくり」を当時の活動理念に掲げ、Jの参加条件を満たすスタジアム建設の署名運動まで実施して地元でも評判になっていました。それだけに本田の決定は私たちURAWAのサッカーファンにとっても何ともダメージが大きく、衝撃的な出来事でした。

森:これも後から聞いた話だけどね。あの時点では、それこそ日本中のJ参加クラブの相談役になっていた川淵(三郎)チェアマンが橋渡しをしてくれたらしいです。本田の不参加が決まって困り果てた新田君たちが川淵さんに相談に行ったところ「それなら、三菱のモリチンのところに行ってみたら?」な~んて、アドバイスというかヒントをくれたんだな。この経緯が浦和にレッズが誕生する決定的な発端になったわけで。

豊田:そして西が丘サッカー場近くのファミリーレストランで、ついに三菱とURAWAがテーブルを挟む会談が実現する……。

森:そうそう、西が丘近くが初対面だったことはよく憶えていますよ。ええと……あのファミレスは何だっけなあ。

豊田:古参のサポーターの間では、伝説の”すかいらーくの出会い”と呼ばれています(笑)。

森:それだ、すかいらーく(笑)。

豊田:三菱サイドは森さんと清水(泰男)さん、浦和サイドは「つくろう会」の新田博利さんと吉田浩さんというメンバーですね。

森:私たちにとっては文字どおり”渡りに船”のお話だった。でもそういう顔は一切見せずに「じゃあお会いしますか?」から始まって「分かりました、社内で検討後にお答えします」という流れの初会合(笑)。

豊田:でも、そこからは……。

森:うん、トントン拍子だね。実際問題として三菱サイドの常務会に諮らなくてはならなかったことは事実ですけど。というよりも、まったなしの情況という方が当たっているよなあ。クラブ運営のための資金確保を経営陣にお願いしなくてはならないし、浦和ベースにおいては地元の市議会議員詣でに始まって、自治体の協力要請とか、J基準にあわせてのホーム駒場の拡張計画とか……取り組まなくてはならない問題が山積みでした。

豊田:でも実際には三菱が1週間でも決定に迷っていたら、直後にフジタ工業(後に湘南ベルマーレとなる)が浦和ホームへの名乗りを上げた背景もあってどういう結末になっていたか分からなかった。そういうエピソードを大住良之さん(サッカージャーナリスト)にお聞きしたことがあります。(注:この前後の情況は大住良之氏の著書『浦和レッズの幸福』アスペクト刊 に詳しい)

森:本当にあの(出会いの)時の感覚は忘れられないね。

豊田:思うのですが、この森さんと新田さんらの出会いが無かったら浦和レッズというチームの誕生はなかった……。ここまで“サッカーの街”を自任する場所にJチームが生を受けることはなかったし、あの黄金時代を築いた三菱重工サッカー部も栄えある発足の10クラブに名を連ねることはなかった。存続の危機に瀕していたかも知れません。

森:そうそう。何だろうね、巡り会わせというのかな、そういうものを感じた。

豊田:そこから三菱、URAWA双方の必死の努力が始まります。

森:本当にね、どちらも時間に追われてバタバタの作業ですよ。社内の事務処理は佐藤仁君(元浦和レッズ運営部長)ら何人もいないスタッフに放り投げて、僕は取るものもとりあえず各種調整や陳情のために外を駆けずり回るような毎日。

豊田:新田さん以下、JCの協力体制も万全であったとか……。

森:とにかく認可のためにはスタジアムを整えなくてはJ開催が出来ない。自治体の認証も欠かせないし、そのためには地元議員の協力も求めなくてはなりませんでした。自治体の該当部署や長老議員さんへの紹介など、新田君や山口君にはずいぶん駆けずり回ってもらったよ。それによって市議会で認証してもらうとか、市の公園緑地課との提携が築かれるとか、重要なステップをクリアできたわけです。緑地課の方にも認可に必要な条件を実現可能な線でいろいろ整えてもらったり……。あの時にいろいろ世話になったURAWAの方たちとの繋がりは、いまに至るまで続いているね。

Photo by (C) Kazuyoshi Shimizu

豊田:J規定の2万人収容レベルを備えたホームスタジアムというのは、当時の日本サッカー界にあってはかなりのハードル。東京はもちろんローカルにおいても本拠地のスタジアム確保は最大の障壁でした。

森:そう。そこがクリアできずに断念するケースは多々あったから。一方で創設資金も本社にお願いしなくてはなりませんでした。といってもね、プロクラブの運営資金なんて私も当初は見当もつかなかったが、とにかく書面を作ってトップの人たち(三菱自工経営陣)に諮らなくてはならない。「ホーム浦和」の決定に続いて、これまた常務会決済事項だからね。鉛筆なめなめ一人で概算書を作成しましたよ。金といったって一体幾らかかるんだ?これくらいかな?なんてね(笑)。でも読売クラブとかの例を除けば、プロクラブひとつの創業資金なんてサッカー界で誰も計算したことはなかった時代だから……。

豊田:聞くほどにこういうエピソードはくり返してメディアで伝えられなくてはいけないと思いますね。ぜひこれからも森さんご自身から復唱をお願いしたいです。

豊田:そうこうしているうちに森さんは三菱内部においては初代監督まで引き受ける情況になってしまいます。

森:本拠地も決まったし、ようやくプロ化の道すじも見えてきて「そろそろプロを指揮できるような監督も探さなくちゃな」と思っていた矢先ですよ。清水社長から「おいモリチン、お前が自分でやらんか」の言葉(笑)。「えーっ?」っという感じ。社内的にもそういう人員構成で進めるしかない情況だったのでしょうけど。

豊田:失礼ながら森さんは、レッズサポーターの印象では、やたらと「3年分くらい負けた!」のセリフで語られる監督。しかし時系列で証言を並べれば分かることですがレッズはJリーグ創成メンバー10チーム中でいちばん遅れて、しかも森さん以下最小のマンパワーと施設でスタートせざるを得ないクラブではなかったでしょうか?

森:ホーム浦和が決まって腰すえて準備始める頃には、もう92年のナビスコが始まってしまう時期だったから(苦笑)。そりゃあもう鹿島、日産(横浜マリノス)や読売(ヴェルディ川崎)に比べると、スタジアムなどのハード部分はもちろん、かけられる人員の数も自治体のバックアップ等の根回しも比べ物にならないくらい遅れていました。

豊田:三菱だけが、タイヤ4輪がそろわないうちにクルマを発進させるような……。

森:そうそう、そんな感じです(笑)。でも、それに反して新田くんたちを始めとする地元の熱意と協力体制は素晴らしかった。そこに支えられた部分は間違いなく大きかったです。だから私も、先ほど触れた運営予算を三菱自工サイドに通す時などは本当に力が入りましたよ。本社内部でも「伝統あるサッカー部を潰すな」の意向が強かったことを受けて、「年間で10億円、それを10年間お願いしたい」という要望書にまとめました。最終的には当時の”常務会決済事項”だからね、この案件も。

豊田:聞いていても息が詰まりそうな緊張の場面(笑)。

森:いまも憶えてるよ。(三菱の場合は)常務会をやる前に社長、副社長、会長の会議が持たれるのですが、そこに同席させてもらえたんです。通常その席には社員は一切入れない決まりになっていたから。そこで幹部の方々に念を押されました。「そうか、年間10億を10年間か。それで良いんだな? 間違いないな?」って(笑)。頭を下げながら「はい。結構です。10年後には独り立ちできるよう、頑張ります!」な~んて答えましたよ。

豊田:そんないろいろな苦難を経て、晴れて浦和・駒場のスタンドを目にされたときは……。

森:スタンドの雰囲気とレッズサポーターの応援は語るまでもない。「ああ、URAWAに来て良かったな」と……。うん、自然とそう思える瞬間でしたよ。私自身の経験から言っても、浦和は昔からサッカーが盛んで、このスポーツにおいては由緒ある場所。三菱すなわちレッズの本拠地は、東京が無理なら浦和が良い……そんな考えには迷いはなかったな。社内資料のホームの候補地にはいつも一番上の欄に書いていた場所だったのだから。

豊田:ありがとうございます。

森:加えてあの盛り上がりは経営面から見ても圧倒的な“追い風”だった。「年間10億を10年間」といってもね。本当にスタッフみんなが頑張ってくれたし、ホーム浦和の協力体制は大変なものがあったから……。レッズが三菱にその満額を世話になったことは一度としてなかった。少なくとも私がレッズに在籍していた期間中にはね。クラブを離れた後も情況は伝え聞いてきましたが、レッズがその額を親会社から出していただいた経緯はないはずです。

豊田:それにしても、JFLの三菱自工の低迷が続いていたちょうどその頃、サッカーの街・浦和も高校王座から遠のく苦しい時代を迎えていた。本当にお互いが二度とないタイミングでJの舞台で手を携えたということだと思います。

森:そうだったよね。それがいまやもう、サッカーにプロチームがあることが当たり前。この時代に生まれた選手やスタッフを、これからのレッズは動かして活かしていかなきゃならない。難しいことだと思いますよ、これは。

豊田:それは選手にも通じる課題と思います。サポーターから見ても、かつてのJ創成期の方が選手はプレーにひたむきだったし、自分のプレーを多くの観客の前でプレーする重さを理解していたように感じます。

森:原点だからね、それは。一生懸命で熱が入っている。サッカーを観た観客が感銘を受けるのはその部分なのだから。Jリーグ以前のサッカー観戦でもね、高校サッカーの選手権の動員数がJFLを上回ってしまうことがままあった。上手い下手ばかりじゃないんですよ。プレーにひたむきさがあって熱が伝わってくる。そういうサッカーこそが観客を呼びファンの心を掴むこと。しかもそれこそがレッズのサッカーであることを、我々はいつも心に止めておかなくてはいけないと思う。

豊田:最近レッズのシーズンチケットを手放す人が増えて話題になっているとか。J2に降格しても試合を観つづけた人たちが、いまになって権利を手放している現実があるそうです。クラブはそれを「勝てていないから」「チームの結果が出ていないから」と考えている気配があります。でも、昔から浦和レッズを追ってきたサポーターとしては、その見解には大きな違和感がありますね。レッズは昔から勝てないクラブだった。でも、いつも国立の試合を満員にしていた。レッズの本質はひたむきさであり、サポーターはその部分を支えていたと思うのですが。

森:そこは本当に大切だよね(嘆息)。我々にとって、受け継いで行かなくてはならない大切な部分ですよ。いまのレッズは何か、施設とかサービスとかね…… “プロとしてのカタチ”からばかり入ろうとしているように見えるのだが、そこが気になる。問題の本質は多分そこにはない。プロたる体裁も大事なのだろうが、それはファンの支持を得てからのことのはずです。いまのレッズを見ていると、その序列が逆になっている印象を受ける。

豊田:難しい課題と思いますが、改善して行くには何が必要でしょう?

森:そこまで深いレッズへの提言を言う立場に(現在は)ないことが残念なのだか……(苦笑)。ただ、例えばなかなか結果が出ないことに迷いがあるスタッフがいるなら、聞きに来たりして欲しいよね。それだけの経験はさせてもらっているのですから。そりゃあ私も、たまにクラブに行く機会があれば「どうだい調子は?」と知っているメンバーに声をかけることくらいはできる。しかしそれ以上の助言はねえ……私の方からは率先してアドバイスをしに出向いていくことはできない立場のわけですし。

豊田:ただ森さんのご発言であれば、私たちサポーターにとっても影響は大きいはずです。レッズ史を振り返るメディアも少なくなる中で私たちがこのような場で発声を続けるのも、そういう意義を感じてのことですので。

森:なるほどね。その意味において答えるなら、それはやはりクラブとしての意志の統一でしょう。URAWAらしさ、レッズらしさを受け継ぐためにも、クラブは学んできたものを糧にしてあるべき組織づくりに取り組んで欲しい。

豊田:先ほど来のレッズらしさとか、クラブの経験値蓄積のお話ですよね。

森:レッズには三菱というかけがえのないスポンサーが存在します。でも三菱という企業において組織を作るのと、プロとしてフットボールクラブを運営することはまるで異質な仕事。これはもう当然のことです。もう16年が過ぎているのだからね。本来であれば10年も経った段階で、然るべき蓄積ができていなくてはいけない。

豊田:……それができていません。

森:先ほども話したように、レッズはスタジアムの心地よさとか観客をもてなす環境とかで支持されてきたクラブではないのです。商品はあくまでも選手のプレー、そして彼らのひたむきさ。そこを取り外してはいけないと思う。プロとしての格式とか体裁ばかりに眼が行く運営をやっていれば、それはサポーターや選手・指導者の現場とも信頼関係を保つことが難しくなるケースが顔を出すようになると思う。

豊田:なるほど。

森:その意味からもね。クラブ内の信頼や結束を保つためには、社長やGMの言葉とか行動は重いんです。プロサッカーの組織の中では、一般企業のそれとはまるで違う働きで波及してしまう。いまのレッズを見ていると、そういう危うさが生まれる情況のように思えてならない。土台を作ると言いながら、何が土台なのかを見失っているような印象も受ける。

豊田:その通りと思いますね。

森:サッカーを知らない人材がトップに来る可能性が拭えないのなら、知恵袋の補佐が寄り添っていなくては……。専門職としての判定が出せない人材が責任部署に置かれていては、勝てるはずはない世界なのだからね。創立からの時間も経った。こういう部分をわきまえて、経験を積み上げる体制を作らないと……。監督や選手ばもちろん、レッズのスタッフ全員が「自分の成果」ばかりにとらわれないことも肝心です。クラブの流れをよく見て、長所は継承して欠点は改善して欲しい。そういう努力を(クラブスタッフの)全員で実行できて、始めて浦和レッズは真の強豪になり得るのだと思います。

≪2010年8月9日 都内にて  この項 了≫

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