浦和フットボール通信

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河合貴子のレッズ魂ここにあり!「真の優しい眼差し~広瀬治コーチ」(12/28)

J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

ピッチに崩れ落ち座りこんだ選手達の傍へ静かに近づき、手を差し伸べて立ちあがらせる広瀬治コーチの姿を何試合も見て来た事か・・・。それは、今シーズンに限った事ではなかった。浦和が完敗した時や、敗戦の責任を感じ立ち上がる事の出来ない選手がいると、広瀬コーチは必ず優しく手を差し伸べていた。

公式戦でベンチに入れるスタッフは、監督、ヘッドコーチ、GKコーチ、通訳、ドクター、トレーナーと決まっている。堀監督体制になって、広瀬コーチはベンチから外れる事になったが、広瀬コーチの選手達を見守り、支える姿は変わらなかった。最終戦、目の前で柏に優勝を決められた時もそうであった。優勝を喜び合う柏の選手達、スタッフ達とは対称的に、浦和の選手達はピッチに崩れ落ちしばらく立ち上がる事も出来ずにいた。広瀬コーチは、真っ先にピッチの中に入り、静かに選手達に近づき手を差し伸べて立ち上がらせたり、肩を叩いたり、試合後の挨拶はちゃんとしろと言うように、選手達の背中を押した。ホームで優勝を決められてしまう悔しさ、情けなさを忘れない様に、黄色い歓喜の輪の中で、柏のネルシーニョ監督が宙に舞う姿を確りと目に焼き付けろ、現実を確りと受け止める強さを持てと言うメッセージでもあった。

それは、選手時代からどんな時も現実から逃げずに向き合ってきた広瀬コーチだからこそ、出来る行動だと思う。広瀬コーチは、埼玉県与野市(現さいたま市中央区)出身、小学校3年の時に与野市本町少年サッカー団でサッカーを始め、三菱養和、帝京高校と中盤でチームを支え、そして1984年に三菱重工業サッカー部に入部し、Jリーグが発足してから2000年に引退するまで、浦和を牽引して来た。浦和が勝てなかった当時、駒場スタジアムの「嘆きの丘」と呼ばれる所から、選手バスに向かって様々な物が投げつけられた事が何度もあった。その時、広瀬選手はバスから降りて、罵声を浴びせるサポーターの前に、臆することなく立ち「本当に申し訳ない。みんなの気持ちは分かる。俺達だって勝ちたい!勝つために必死になってやっているんだ。でも、勝てなかった。悔しくて、情けないのはピッチで闘った選手なんだ。俺達の気持ちも分かって欲しい。次は勝とう!みんなで勝とう!」と深々と頭を垂れる姿は忘れる事が出来ない。また、最終戦が終わった後のサポーター達の忘年会に短い時間だが顔を出して挨拶したり、非公式の場でもサポーターへの感謝の気持ちを忘れなかった。

広瀬コーチは、メンタル面だけでなく、プレーに関しても選手達に優しく手を差し伸べていた。何かプレーで悩みを抱えると選手達は「ヒロさんに聞いてみます」と口々に言う。選手時代からもそうであった。小野伸二選手に付き合って居残りFKの練習をしている広瀬選手の姿を何度も目撃している。小野選手は「ヒロさんのFKのコースはGKが絶対に取れない蹴り方をする。ヒロさんから教えてもらっています」と当時、話してくれた。フットボールの事で分からない事があって、広瀬選手に尋ねると「ちょっと靴貸して」とピッチに座り込み、自分のスパイクを脱ぎ、私の靴とスパイクを選手に見立てて分かり易い様に動きを教えてくれた事もあった。選手だろうが、取材陣だろうが、分け隔てなく接して、優しく教えてくれるのが広瀬コーチなのだ。

それは、選手時代でもコーチ時代でも決して変わる事がない。常に優しい眼差しで周りを見つめて、手を差し伸べる。その優しさは、甘やかす優しさではない。時には叱咤し、「このままでは、駄目だぞ」と厳しい事もはっきりと言う。本当にレッズの事を思っているからこそ、愛情を持って厳しい事も言えるのだ。広瀬コーチには、真の優しい眼差しがある。

来シーズンから広瀬コーチは、トップチームを離れ、ユースコーチとして指導にあたる事になる。広瀬コーチの活躍の場が変わっても、真の優しい眼差しは変わる事は無い。選手としても、トップチームのコーチとしてかけがえの無い経験を積んで来た広瀬コーチがどんな選手を育ててトップチームに送り込んで来るのか、楽しみである。

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