浦和フットボール通信

MENU

川上信夫「浦和と柏。レッズとレイソル。」(2)(1/18)

小見隆幸・ネルシーニョの指揮統率ラインを確立することで、J2&J1連覇というリーグ史上初のV字回復を演じてみせた柏レイソル。同クラブの前身は、かつて古河電工を加えて“丸の内御三家”と称された三菱時代からの浦和レッズのライバル・日立製作所である。そして、その「名門日立」を象徴する往年の名手が、今回インタビューをお願いした川上信夫Jリーグ・マッチコミッショナー。そして同氏の浦和西高後輩でもある西野朗・前ガンバ大阪監督だった……。(浦和フットボール通信編集部)

川上信夫(かわかみ・のぶお) プロフィール
1947年、旧浦和市生まれ。Jリーグ・マッチコミッショナー。埼玉大学附属中学を経て名将・仲西駿策監督率いる浦和西高校サッカー部に入部。65年岐阜国体において全国制覇を達成。立教大学卒業後に日本リーグ・日立製作所(現柏レイソル)に入社。以降78年まで同社サッカー部主力としてプレーする。日本サッカーにおけるリベロの草分け的存在となりリーグ制覇1回、天皇杯制覇2回。日本代表としても屈指のヘディング能力を活かしたディフェンダーとして活躍し、日本代表Aマッチ41試合、A代表通算出場105試合。来日したロン・デービス(サウザンプトン)、エウゼビオ・ダ・シルバ(ベンフィカ・リスボン)、アラン・ムレリー、マーチン・チバース(トットナム・ホットスパー)、ペレ(サントスFC)、ウォルフガング・オベラート(FCケルン)、ウーベ・ゼーラー(ハンブルガーSV)、カールハインツ・ルンメニゲ、ゲルト・ミュラー、フランツ・ベッケンバウアー(バイエルン・ミュンヘン)ら、錚々たる世界的名手とのマッチアップを経験した。西ドイツ、アルゼンチン両W杯(74年、78年)予選、モントリオール五輪(76年)予選先発メンバー。JSLベストイレブン選出2回。70年代の日本代表を牽引したURAWAのレジェンドである。

【JFLの名門・日立を背負った浦和西高OBたち】

UF:西野朗さんのお話が出たところで伺います。川上さんにとって西野さんは浦和西高校およびJFL時代の日立を通しての後輩ということになりますね。

川上:そうです。8年後輩だから現役時代に一緒にプレーした期間は短かったけれど、彼は学生時代(早大)から代表に選ばれていたから一緒に日の丸を着けた時期もあるんですよ。

UF:ワールドカップ・アルゼンチン大会の予選当時(1977年)です。

川上:残念ながら負けてしまったが、忘れられない一戦をともにしました。当時のイスラエルはサッカーどころではない(政情不安がある)時期でね。代表攻撃陣は切り札の釜本邦茂さんが負傷で出られず、テルアビブまで遠征して負けゲーム。ホーム戦は開催さえできない(苦笑)。あっけなく出場が消滅してしまった予選でした。(編集部注:悲願の本大会出場を目指した日本代表は、ブンデスリーガの戦術を学び斬新な選手起用で成果を示していた三菱重工・二宮寛監督を指揮官に起用。当時の中東地区で最強を誇ったイスラエル、宿敵・韓国と争う一次予選に臨むも対イスラエル戦はテロ危機回避のために日本国内での開催は見送り。2戦とも敵地テルアビブで戦うというレギュレーションを強いられて敗退した)

UF:日本サッカーにとって苦しい時代でしたね。当時を支えた代表のチームメイトとはいえ、川上さんと西野さんは8歳という年齢差。それはその後のJリーグ誕生のタイミングと考え合わせると、特にコーチや指導者としての履歴に関してギャップをもたらす“世代格差”であったように思います。

川上:それは大きな意味を持つよね。当時は各チームともキャプテンレベルの主力が現場を引き継ぐ責任者として指名され、監督・コーチの座を目標として指導者トレーニングを始める時代でした。新日鐵で言えば宮本さん(輝紀 山陽高OB メキシコ五輪銅メダルメンバー)だし、三菱で言えば二宮さん(寛 三菱重工サッカー部全盛期の指揮官 )もそうだった。つまり日立や三菱といったJFLの老舗企業にしても、指導者候補として現場に残せる人材はぜいぜい一人か二人。そのあたりの線が通例でした。

UF:当然、川上さんも日立におけるその候補者でした。

川上:はい。ただ、同世代メンバーには山口芳忠さん(メキシコ五輪銅メダルメンバー、元柏レイソル監督)がおられましたからね。「二人は要らないだろう」という上部からの通達があって山口さんが現場を預かり、私は社業に専念するという引退後の構図になりました。

UF:現在では考えにくいほどの“禅譲システム”と思えます。それに比べると川上さんらの引退後に日立の看板を背負った西野さんは選手としてのピークが学生時代にあり、その後は指導者としてのキャリアに移るまでの空白があるように思えるのですが。

川上:それについてはねえ……うん、プレーヤーとしての西野君にとっては「日立のサッカー」は馴染まなかったかも知れないな。当時の日立の戦術というのはDFに人数をかけ、まずは守りから入る。反転速攻でサイドを走らせてチャンスを作り、点をもぎとって守りきるというスタイルだったから。

UF:現役時代の西野さんのような典型的な「司令塔」の居場所がない?

川上:そうそう、だからその意味ではね、他の(日本リーグの)チームからも引く手あまただった彼にとっては(日立でプレーすることは)気の毒な情況だったかも知れません。

【地元が生んだ名指揮官をURAWAに迎えるために】

UF:そして西野さんは引退後、その現役時代の空白部分を一気に埋めつくすような活躍を見せます。

川上:指導者としての道を選んだ後はすぐに(日立から離れて)独自の歩みに入る。それまでの経緯から考えてもね、西野君は価値ある決断をしたと思いますよ。Jリーグ誕生というめぐり合わせもあったにしろ、独自のコーチ修行の道を選んで誰もが認める監督としての成果を残して行ったわけだから。

UF:それだけ指導者への志向が強かったということでしょうか。

川上:僕は直接相談を受ける立場ではなかったので経緯は分からないが(彼が理想とする)やりたいサッカーがあってそれを追求する意識が高かった。そういうことだと思います。そのあたりは僕と西野君の共通の先輩である鈴木良三さん(浦和西高、立教大学、日立OB メキシコ五輪銅メダルメンバー)が進路相談に乗られたのではないかと記憶しています。

UF:若くして年代別の代表監督に抜擢され、日本の五輪史上ではメキシコの銅メダルに匹敵すると言われる“マイアミの奇跡”(アトランタ五輪グループ予選 日本1-0ブラジル)も演じることになります。

川上:オーバーエイジ枠も使わずに、彼らしい計算が見える会心の勝利だったよね。本当にURAWAが誇る日本人指揮官になってくれたと思います。

Photo by (C) Kazuyoshi Shimizu

UF:ここはちょっとお聞きしにくい質問なのですが……もしも引退直後に日立の指揮官を任されていたら、いかに西野さんでもこういう指導者としての成長曲線は描けなかったのでは?

川上:ううん……確かに答えにくいな、それは(苦笑)。

UF:これはかつてJリーグ創設直後にジェフ市原(現ジェフユナイテッド千葉)を監督として率いた永井良和さんに後日談として伺ったことがある件です。名門であればあるほど、例えば“丸の内御三家”ともなれば指揮官が思い通りに采配を振るえない要素はさまざまにあったと……。

川上:まあ確かに。組織の上下関係、先輩後輩の序列に反した言動はできない風潮がある。永井君や僕らより上の世代は特にそうかも知れません(苦笑)。

UF:あちらを立てればこちらが立たずという情況が多く、さまざまな苦労をされたようです。象徴的な要素としては自分がほぼ感知できないセクションからの決定によって、突然リトバルスキー(ピエール・リトバルスキー 当時ジェフ市原所属)が現場に加入して来る(笑)。

川上:つまりJFL時代のような企業チームの組織体質を引きずったままでは、プロとしての勝負ができないということでしょう。プロの精鋭集団でなくてはならないはずだから。経営母体の社員数とは比較にならない少人数の中に企業の体質を持ち込めば、それはクラブの環境や空気感も硬直してしまう。そこを考えていかなくてはね。くり返しになりますが、我々の時代(JFLからJリーグへの変遷期)はそこが難しかったわけですが。

UF:いずれにしてもJ1最多勝利監督がURAWAに帰らない決断をした結末は、現状も踏まえれば私たちにとっては残念なことであると思います。

川上:一人の旧浦和市民の感情として言えば、そりゃ私だって当然そう思うよ(笑)。彼が浦和レッズ指揮官に就任なんて、想像しただけでビッグニュースでしょう。

UF:期待は非常に大きかったと思います。

川上:ホームタウンの盛り上がりというのは欠かせないクラブの未来だからね。柏は見事にJ制覇を果たしたけれど、たとえばホームグラウンドの日立柏サッカー場は収容が2万人に届かない。千葉県は多くの若い才能を生み出すエリアになったが、柏のサッカー熱はまだサポーター層に限定されたもので「根づいている」とは言えないでしょう。URAWAにはね、6万人収容のスタジアムがあって、私のような世代を挟んで他にはないサッカー熱が続いている。それが活かしきれていないとすれば、何とも残念なことだと思います。

UF:いま一度、Jリーグの誕生時期にまつわる“世代”の話をさせていただきます。もしも川上さんがあと10年遅れて生まれて「Jの監督世代」に重なる世代であったなら、自分のサッカー人生は変わっていたと考えますか?

川上:もちろん変わっていたと思うな(笑)。サッカーの現場に携わったまま社会人人生が送れるのなら、そんなに嬉しいことはなかったですよ。私も西野君と同じようにプロの指導者の道を目ざしていたと思います。

≪2012年1月 都内にて≫

 

ページ先頭へ