浦和フットボール通信

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URAWA TOWN MEETING 004 「レッズジュニア創設、地元の才能育成をどうするか。」

「サッカーの街を名乗りながら、サッカー指導の現場で地元トッププロとホームタウンの連携がない」――― さかのぼれば、このテーマは浦和とレッズがJスタートに際して以来の懸案だった。折しもレッズのジュニア年代へのアプローチが本格化し、レッズアカデミーと地元指導者が連携して地元少年団選抜メンバーを育成するジュニアアカデミープログラムも始動から2年目を迎えている。ホーム浦和の育成は改革されるのか。そこにはどんな未来設計があるのか……。FC浦和・町田隆治監督、北浦和少年団・吉野弘一監督、矢作典史レッズアカデミーセンター長をパネリストに迎えて開催された、注目の第4回『URAWA TOWN MEETING』の模様をお届けする。浦和フットボール通信編集部
 
2012年10月11日(木)北浦和 ワインバール・ピノキオ

司会:椛沢佑一(浦和フットボール通信編集長)、豊田充穂
ゲスト:矢作典史(浦和レッズアカデミーセンター長)、町田隆治(FC浦和、別所少年団監督)、吉野弘一(北浦和少年団監督)

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椛沢:浦和タウンミーティング第4回は、「レッズジュニア創設。地元の才能育成をどうするか」がテーマです。来年度よりスタートするレッズジュニアについて、さらに浦和に長く続くサッカー少年団と、どう連携をして地元の才能育成をしていくかというテーマを討議していきたいと思います。浦和レッズから矢作センター長。浦和から町田監督、吉野監督をお招きしております。よろしくお願いいたします。
まずは、来年度から浦和レッズはジュニア(U-12) を創設します。既にオフィシャルで発表されている情報としましては、対象者は2013年4月から小学4年生、5年生、6年生になる男子。設立目的(1)ジュニア年代の選手、指導者との交流により、地域活性化、地域貢献に寄与する。(2)サッカーを通じた「人づくり」の取り組み。(3)最長9年間(小学4年生から高校3年生)の一貫指導による「サッカー選手としての土台作り」。活動開始は2013年3月(予定)活動場所は、大原サッカー場他とのことですが、その他に詳細部分を矢作さんにしていただけますか。

矢作:今、ご説明して頂いたのが大枠の話で、他のJクラブはジュニアを持っている中で、「レッズはやらないのか?」とか「早くから選手を囲っておいた方が良い」とか「大宮アルディージャはすでにやっている」等々、以前より色々な声をいただいていたのも事実です。しかしレッズがホームタウンである浦和エリアとは悪い関係ではない中で、地元にはFC浦和というチームの存在もありました。そこで「地元にお任せをしていた」というのが実情です。たた直近においてFC浦和が公式には活動ができなくなる等々の状況変化もあり、色々な方からのアドバイスもあった。その結果、ホーム浦和の子供たちの目標になるようなジュニアの年代のチーム、「浦和」という名前のもとにチームづくりを一緒にやろうという合意からスタートを切ることとなりました。クラブとしてはしっかりと子供たちを預かって「トップに繋げるまでの最大9年間で育てていこう」ということ。「地域との接点を増やそう」ということ。そして、サッカー選手としてだけではなく「スポーツを通じて人づくりをしていこう」ということ。これらはJリーグ理念にもピタリと合致する内容で、この3つのポイントを目標とする起点を確認している段階です。実際の活動は来年から。対象は6年生が中心になりますが、5年生、4年生も確定ではありませんが、私たちが見ていく中で適合すればというところですね。我々としては初めてやるジュニアチーム。地元のURAWAには長く経験がある指導者が数多くおられます。力を貸していただきながら一緒にやりたいと思っています。Jのリーディングクラブとして「目標になる、という面から広く募集して欲しい」という声もあったので、選手の応募資格は浦和エリアに限らず、ということになっています。

椛沢:ジュニア創設に向けて、参加者の方からの質問がありましたので紹介します。「浦和レッズは他のチームに比べると、ジュニアができるのが遅かったと思いますが、それはなぜですか?」

矢作:これについては私がレッズに来るずっと前の話になります。レッズがホームタウンを浦和にする際、Jへの加盟のために育成組織を持つことは必須条件でしたが、ジュニアに関しては任意ということになっていました。(コメント1※Jリーグの規約という意味で発言しましたので、このような表現にしてもらうほうが適切)(取り決めでした。)始めのご紹介にあった通り、浦和36団は長い歴史を誇り、ノウハウもある。模範的な選手、優秀なプレーヤーの輩出実績もあるので、「我々は地元に任せよう」という主旨のもとに浦和レッズ清水社長(当時)と森孝慈さんが地元と合意していた(コメント2※浦和指導者協議会 会長との話し合いが実施され、その席で、浦和レッズの立場をこのように説明。指導者協議会も了解ということを当時の会長 竹野仲町少年団代表から聞いています。それを踏まえて、昨年の代表者会議でこの約束は反故にするとの発言が竹野元会長からありました。)(に説明をさせて頂いた)という経緯がありました。それを踏まえてジュニア年代は「地元にお任せしていた」というのが実情です。先ほど説明させて頂きましたが、FC浦和の状況などが変わった中で、どのようにジュニアチームをスタートさせるかはすごく悩みました。元々そのようなお約束があってURAWAにホームを置く中で、紆余曲折色々と調整をし、今回晴れてジュニアチームを作るという運びとなったわけです。

椛沢:先ほどからご説明がある通り、浦和には各小学校ごとに、36のサッカースポーツ少年団があります。簡単に浦和のサッカー少年団の歴史をご紹介いたしますと、「浦和市スポーツ少年団(現・さいたま市浦和スポーツ少年団)は、埼玉県で開催された第22回国民体育大会の年、昭和42年3月4日にそれまで各小学校で活動していた少年サッカーチームを母体に、6団(三室、北浦和、針ヶ谷、本太、大久保、別所)のサッカー少年団が結成された事に始まる」とのこと。吉野さん、ご確認いただけますか。

吉野:そうですね。昭和42年の埼玉国体開催を機に始まったのですね。僕たちはその時3月まで5年生だったんですけど、6年生の時に活動が開始されたと記憶しています。

椛沢:その36団からさいたま市南部指導者評議会が構成されており、トレセンやFC浦和のチーム運営を行っています。FC浦和は2009年まで全日本少年サッカー大会にも出場をしていました。

町田:FC浦和は、私が指揮を取らせていただき全国優勝を果たした2008年の翌年まで活動がありました。日本サッカー協会の4種登録を「FC浦和」として登録をしていたのですが、2010年からそれが認められなくなったということです。

椛沢:それは選抜チームが認められないということになったのでしょうか。

町田:いや、選抜チームがダメということではありません。年間を通して単一チームでの活動が参加資格であることが確認されたわけですね。あとは埼玉県のローカルルールによっても活動の継続が難しくなったという実情もあります。

椛沢:しかし現在は、プライベート大会という形ではFC浦和は活動をしています。甲府開催の大会や鹿島で開催されたナイキカップなどではJ下部組織のチームを破って優勝を果たしている。依然として力があることは証明していますね。

町田:ご説明の通り、プライベート大会ではJクラブが集まるようなレベルの高い大会には出場させてもらっています。子供たちにより高いレベルの実体験をさせる願いは持ち続けているので。また、FC浦和という名前があればこそ呼んで頂いているという実情もある。36少年団個々のチームで呼ばれるということは稀です。現在は6年生の活動の終了時期ですが、5年生からセレクションをし、引き続きFC浦和の活動は継続しようと考えています。

椛沢:先ほどのご紹介で「市内各小学校にサッカー少年団があるのは、日本でも浦和だけ」と説明を入れさせて頂きましたが、これは過言ではないですよね。

町田:ローカルな話になってしまいますが、サッカー少年団としてひとつの市で、しかも旧浦和市というエリア限定で36団が活動をしているというのは全国を見ても例がないのではないでしょうか。

椛沢:実際に浦和の36団出身の浦和レッズ所属プレーヤーも数多くおります。北浦和出身の山田直輝選手、矢島慎也選手、道祖土出身の岡本拓也選手、OBでは堀之内聖選手(三室SS少年団)、桜井直人さん(三室SS少年団)、内舘秀樹さん(西浦和SS少年団)、阿部敏之さん(田島SS少年団)などですね。彼らの実績にまつわる質問もいただいています。「直輝、慎也は監督の目から見て、小学生時代からほかの子とは違う才能を感じていましたか?」。吉野さん、いかがでしょうか?

吉野:二人ともサッカー小僧の典型でした。体格的には決して恵まれている方ではなかったですけど、とにかくサッカーが好きだった。少年団創設メンバーの大半が小学校の先生であった中で、北浦和という地域は社会人の方が監督に就任しています。その方たちがクラブチームを持っていたり所属したりしていたんですね。よって地域で小学校から中学、高校という形で、いわゆる「クラブ的システム」で育成が進む土壌がありました。あの二人は周囲の環境に育てられたという面が強かったと思う。地域の中に、お兄ちゃんがいたり、先輩がいたり、近所でサッカーをやっている人がすごく仲が良い。小学校を中心に集まれる機会が多くて、中学生も大原中、本太中の生徒が帰りに寄ったり、北浦和はナイター設備を導入した最初の学校だったので、ナイター練習に社会人、小学生などが集まってくるという情況もありました。地域全体で子供たちを育てたという部分、そこは強いと思います。二人は学年が2つ違うんですが、いつも一緒で、直輝のことをみてヤジ(矢島)が育ってきたという感じ。いつも憧れるような先輩がいたということで、伸びていったのだと認識しています。

Photo by(C) Kazuyoshi Shimizu

椛沢:昨日行われた天皇杯では、矢島選手が見事な活躍を見せて同点ゴールを決めて流れを変えてくれました。矢島選手は、ポジションの取り方が優れているなと思うのですが、前回、町田監督と対談をして頂いた時も小学生の時からそのような才能に優れていたとおっしゃっていましたね。

吉野:直輝もそうだったんですが、子どもってあまり形にハメてしまうとダメなんです。「ポジション、前めでいいよ」とか「真ん中にウロウロしていていいよ」という感じでやっていると、相手のプレッシャーが強い時は下がろうとか、いまは前めで行ってみようという言葉が彼ら自身から出て来ました。そういう面からも、自分で考えるという能力は高かったでしょうね。で、ふたりとも負けず嫌い(笑)。課題を与えると次に会う時にできていないと悔しいとか言って、努力がすごかった。強制されることもなく、そのような成長ができる環境が良かったんじゃないかと思います。

椛沢:町田監督は岡本拓也君をトレセンやFC浦和で指導されましたが、その時の印象はどのようなものでしたか?

町田:あの年齢で、とにかく「上手だな」という印象です。矢島慎也君もFC浦和でやっている時に指導したのですが、非常に高いレベルでさまざまな能力が備わった選手だと感じていました。

 

椛沢:さて、次のパネルを見ていただきますが、「1977年国立競技場」。ここからは豊田に説明をしていただきます。

豊田:例によって古い話になってしまい恐縮なのですが(笑)。ただご紹介にあった通り、少年団に関する浦和36団には伝統があり、レッズ誕生以前からのURAWAのサッカー史に直結しています。しかも今夜お招きした両監督のサッカーに通じる原点は、予想にたがわず「赤き血のイレブン」とのこと。まずは町田監督、このゲームをご記憶と思いますが。(ビュアーを指す)

町田:(ビュアーを見ながら笑顔で)浦和南と静岡学園が戦った1977年の全国高校選手権決勝ですね。

豊田:その通り。浦和南高校と静岡学園が国立で正月対戦をした時の様子です。(次のカットを示しながら)こちらは、同じゲームで千駄ヶ谷門前に群がる群衆の様子。当時は日本代表戦でも25,000人くらいしか入らない時代。そんな折に、この大会から兵庫・西宮から東京・首都圏開催に変わった全国高校選手権がいきなり5万人を集める盛況となりました。理由は当然に浦和南vs静岡学園という対戦カードです。かつてスポーツメディアの大御所である東京新聞の財徳さんから、この日集まった観衆の7割は浦和および埼玉、静岡からきたファンだったんじゃないかという話が出たそうです。そのくらい郷土出身の選手が全国の舞台で頂上決戦をやることに関し、浦和・埼玉のサッカーファンは当時からモチベーションを持っていたという証しでしょう。これはまさに、現在のレッズサポーターの思いと同じと考えるのですが。南高OBの吉野さん、いかがでしょう。

吉野:そうですね(同じく笑顔でビュアーカットに見入る)。この試合は初めて大阪から首都圏開催になっての決勝戦。母校の浦和南は前年度に田島幸三さんがいて優勝を果たしていました。この77年メンバーには現在は高校教員の沼田先生、森田先生、野崎先生がいて活躍した大会です。

 

豊田:このスタンドの様子を見て頂くとお分かりと思いますが……。私がよくコラム等で「Jリーグが始まる以前から浦和のチームが出てきたゲームは国立の通路までがいっぱいだった」と書くと「本当なんですか?」という反応を頂くのですが。これ、見てください。(ビュアーカットの細部を指さす)観客の座席が足りず、本当に通路まで立って見ている状態だったということが分かると思います。当時は埼京線がなかったので、京浜東北線から赤羽線に乗り換えて、そこからの直通の電車で千駄ヶ谷につくのですが、赤羽のところから赤羽線への渡り通路を見ると、どれくらいの人が国立に向けて浦和、埼玉から向かっているのが手に取るように分かる状態だったのです。私自身も渡り廊下の所で友人たちと待ち合わせをしたのですが、そういうグループも多くて通路が人の海でした。つまり交通アクセスから考えても、あの日の国立の5万人に凄い割合で浦和・埼玉方面からの観客が占めていたことは間違いないでしょう。今夜の当イベントは、このホームタウンの経緯を踏まえた上からも、レッズというトッププロとURAWAの繋がりを再構築する良き機会にしたいのです。

吉野:このゲームでの浦和南は期待通りの面白いサッカーをやってくれました。でも、それに輪にかけて静岡学園は井田先生(井田勝通監督)がドリブルに徹するという面白いサッカーをしていた。浦和南は松本暁二先生が戦術に長けた先生で、最初の15分間に3点獲った試合だったと思うんですけど。

豊田:その通りです。

吉野:戦術を見ても技術を見ても面白い対戦でした。そういう高校が埼玉と静岡から出て来て、この国立まで勝ち上がったわけですから。

豊田:首都圏開催に加えて、この大会からは高校選手権は日本テレビ系の全国ネット放映が始まりました。盛り上がりは予想以上で、この大会のスタジアム動員は通算23万人の動員があったと言われています。

町田:そのファイナルにふさわしいゲームでしたよ。

豊田:実は吉野監督の初取材の少し前、同じ南高校OBの永井良和さんからお話を聞いておりまして。永井さんの証言によると南高校の練習は、地面にボールを置いてダイビングヘッドをするとか、全力疾走をしたままボールリフティングをするとかのメニューだったとか。松本先生(松本暁司監督)のトレーニングは、体育会系で、野球で言うところの千本ノックのような練習だったと……。その後に吉野監督にお話を聞き、ちょうど監督は山田直輝君をU-16日本代表に送り出した直後だったのですが「ボカ・ジュニオールズのトレーニング方法を取り入れている」とお聞きし、さらに「ラグビーボールを使ったリフティングの練習をさせられた」等の直輝君の証言と照らし合わせると、これは南高のサッカーは合わなかったのでは?と感じたのですが(笑)。

吉野:私は母校サッカー部に一年しかいなかった(笑)。ついていけなかったということです。ただ辞めた時に、北浦和には戻る場所があって先ほど説明をしたクラブチームがあったので、そこでサッカーが出来て社会人リーグにも入れたんですね。ただ、当時の南高のサッカーがすごいなと思ったのは、帝京高校と準決勝をやった時に、今までセンターバックで使っていた背の大きい子を帝京の試合だけ2トップで使ったんですね。その時、私は松本育夫さんと見ていたんですけど、育夫さんがこれは松本先生の戦術だと。帝京で一番怖いのは中盤の後ろにいる、上手い選手二人で、彼らのオーバラップが怖いと。それをさせないためには、前に大きい二人を置けば上がってこれない。そうすれば帝京は点が取れない。そこから後半で松本先生は勝負をかけるんだろうとおっしゃったんですね。でも松本育夫さんは帝京が勝つ。そこを変えてくるのが小沼先生だからと。実際に帝京が2-0で勝ったんですけど、サッカーって面白いなと思えた試合でした。

豊田:(客席に向かって)このように吉野監督は謙虚に自分の履歴や指導をお話しされる方なんです。しかし我々が山田直輝君にインタビューをした時、彼は監督のお話を頻繁に出すんですね。その話題ばかり。自分の原点が少年団時代からスタートしているという意味合いのことを盛んに話していました。

吉野:(にこやかに手を横に振っている)

豊田:また今回のレッズジュニアができるというニュースに関しては、吉野さんはレッズに才能を提供することはやりがいのあることだとおっしゃっている。さらには「残されたメンバーでレッズジュニアに勝ってみたい」という言葉を口にされました。お聞きしていて、私はこれこそURAWAらしい指導者の方たちの心意気の象徴だな、と感じたわけですが。

町田:山田君、矢島君に限らず、吉野先生の北浦和少年団からは、いつも多士済々の才能が生まれて来る。これはつねづね感じていることですね。

≪以下、次号(11月1日配信予定)に続く≫

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