浦和フットボール通信

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小宮悦子ロングインタビュー「いま、レッズと浦和と日本サッカーに伝えたいこと」(2015/10/6)

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驚異的な視聴率で報道番組に変革をもたらした『ニュースステーション』(テレビ朝日:1985~2004放映)の隆盛は、Jリーグ誕生とドーハの悲劇に始まり、日韓共催ワールドカップへと連なる日本サッカーの成長期に見事に一致する。旧浦和市出身の名キャスター・久米宏氏とともにあの時代の「フットボールの熱」を体感し、そして報じた小宮悦子氏(川越女子高校OG)に、取材時の逸話や浦和レッズ、日本代表の現状への思いなどを訊いた。<インタビュアー 豊田充穂>

創成期からJを追ったニュースステーション。

豊田:轡田さんとのトークイベント『さいたまサッカー100年コト語り』、興味深く拝見しました。これは浦和・埼玉サッカーの歴史と文化を次世代へ継承するための対談企画ですね。
< 編集部注 : 7月5日、浦和パルコ コムナーレにて開催 Jリーグの理念を実現する市民の会・主催 >

小宮:二度目の開催なのですが、地元の皆さんのサッカーに対する愛着には驚かされます。地元ならではの歴史を語り継ぐ轡田さんは変わらずお元気だし、それを支えるサッカー好きの方々の心意気を感じますね。同じ埼玉県でも入間・川越で育った私からみると、すぐに「あ、これって浦和だな」と(笑)。

豊田:語り継ぐといえば『ニュースステーション』(以下、Nステ)の報道はいまも古くからのサッカー好きの間では語り草です。特にレッズサポーターとしてはJ2降格の際、大住良之さんの「世界でいちばん悲しいVゴール」という言葉を初めて聴いたのも、某有名作家氏の「ああいうサポーターの優しさはヨーロッパではあり得ない」とのコメントを聞かされたのもNステだったことが忘れられません。

小宮:本当にNステの成長期と日本サッカーの盛り上がりは見るほどに重なっているんですよ。番組自体のサッカー歴も古いです。キャスターの久米さんは浦和生まれなのに野球好きで広島カープファンでしたけど(笑)。Jに関していえば創設当初から番組をあげての“応援体制”があって、川淵チェアマン(当時)をお呼びして将来のテーマを語っていただいたりしました。「クラブそれぞれのホームタウンに緑の芝生のグランドを」というJの理念を熱っぽく語る姿が印象に残っています。

豊田:私は同じ頃にJのオフィシャルガイドを制作していたのですが、紙上に取上げられるのはカズやラモス、海外からのスター選手情報ばかり。TVも同様でサッカー本来の魅力を掘り下げるコンテンツが少ないことを嘆いている時代でした。レッズはサポーターばかりが目立っていてチームは負けるという状況が続いていましたが、そんな時代に小宮さんと轡田さんがNステに加えて『スーパーJチャンネル』(テレビ朝日)などでもサッカー史にまつわる高いクオリティの番組を制作してくれた。その結果、ようやく仕事仲間たちからも「轡田さんって川淵さんの先輩なんだってね。なるほどレッズは弱くても、浦和っていう街はサッカーには一家言ある土地柄なんだ」とフォローしてもらえるようになりました(苦笑)。

小宮:それはそれは……そうだったんですか。実はサッカー報道に熱心だった私たちNステにも、小池君という浦和出身の熱心なスポーツ班スタッフがおりまして。もちろん、典型的な地元のサッカー好き(笑)。

豊田:風の便りというか、噂を聞いたことあります。しかしこれは自論もしくは『浦和フットボール通信』のテーマでもあるのですが、サッカーは一定のスパンで現場を確かめ、歴史も振り返りながら近づかなければ本質に迫れない。成長も強化もなし得ないスポーツと思うのです。そうした意味からもNステの果たした役割は大きい。ましてやその中心にいた小宮さんの取材歴は羨ましいとしか言いようがありません。

小宮:実はあのイベントで久々に浦和にお邪魔して「そういえば最近レッズ戦も見てないな」と気づきました(笑)。実際のところ自分はサッカーについてはまったくの素人。そう考えると私は番組を通じて日本サッカーの成長に立会い、その魅力も同時に体験させてもらって来たという実感がありますね。

豊田:実はお気に入りの録画ファイルにアトランタ五輪予選突破を決めた決戦前(1996年春 日本2-1サウジアラビア マレーシア・シャーアラムスタジアム)のNステを加えているんです。28年前のメキシコ五輪予選で日本代表が韓国と引分けるゲームが長沼健さんや岡野俊一郎さん(ともに元日本代表監督、元JFA会長)の証言までを含めて詳細に収録された映像です。「おうNステ、やるじゃないか」という感じ。

小宮:そうそう。あの五輪出場を決めたマレーシアで、同じメンバーたちがジョホールバルの戦いに臨んだのですものね。振り返ればドーハの悲劇の時も試合中継が裏番組の時間帯に入っていました。ゲーム終了後に番組のスポーツ担当はもちろん、ニュースや特集班のスタッフまで落胆ぶりがあまりにも激しくて……。まるでサッカー音痴だった私にまで、そのただならぬ気配が伝わって来たんです。ああ、サッカーには「違う何か」があるんだなと。そういう感覚はあの時に経験したかも知れません。

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豊田:まさしく2002年ワールドカップ開催にまで至る日本サッカーブレイクの予感……。

小宮:たくさんの人がサッカーに注目し始めて、晴れてワールドカップ開催にまで行き着く。本当に日本サッカーの変革の時代だったと思います。でも当初はそんなカンが働いていたわけでもなく、とりあえず(W杯アメリカ大会に)出場を果たしたイタリアから注目しようかな、と。そうしたら好みのスターが見つかりました(笑)。

豊田:当時の小宮さんのロベルト・バッジョ推しは話題になりました。

小宮:サッカーを見なれてくると、分からなかった部分が徐々に見えて来ました。とにかくイタリア代表は、彼が加わった途端にがらっと、雰囲気というか全員のプレーが変わる。この感じは何なんだろうと……。続いてのヒデ(中田英寿)との出会いが決定的でした。当時の彼は前園真聖選手や川口能活選手らの後輩でマスコミの注目度も小さく、私が一人で近づいて話し込んだりできていたんですよ。その頃から「メダルより図書券が欲しいな」みたいな面白いことをいうプレーヤーでしたが、後にあんなに凄くなって日本の中心選手になるとは正直思っていなかった。でもJのベルマーレの試合で彼を見てたら、やっぱりバッジョと同じように彼だけだけ動きが違うんです。背筋をピンと立てて目まぐるしく周りを見て、しなやかに素早く動く……白鳥みたいな選手だなって。そんなことまで目がいく頃には、もうサッカーに夢中になっていました。

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サッカーの感動は、私のキャスター歴の宝物。

豊田:その後の小宮さんはNステをベースにしてオレンジボウルの「マイアミの奇跡」も、ラーキン・スタジアムの「ジョホールバル」も連続して体験することになります。
<編集部注: マイアミの奇跡 = アトランタ五輪初戦で日本代表がドリームチームと呼ばれ、優勝候補筆頭とされたブラジル代表を1-0で下した試合>

小宮:はいはい、選手取材も現地の感動も体験もさせていただきましたよ(得意げに満面の笑み)。あの伊東選手(輝悦 当時清水エスパルス)のシュートがゴールインした時は、もう何が起きたの?という感じの興奮で……。

豊田:それほどのアップセット(番狂わせ)の衝撃だった?

小宮:あの場に居れたこと自体が巡りあわせでした。Nステとしては当然「サッカーを応援して行こう」という番組方針はあったのですが、私がアトランタではなく(サッカー会場の)マイアミにいたのは報道スタッフとして派遣されていたから。たまたま同期入社の報道デスクの女性が、サッカーにはまっていた私に「よかったらマイアミを取材しない?」と道をつけてくれました。本当にラッキーな取材体験でした。

豊田:まさにアップセット(笑)。日本がW杯初出場を決めたジョホールバルのスタジアム通用口で、小宮さんと顔を合わせたGKの川口能活選手が「小宮さんは勝利の女神じゃないですか」と口にした件が思い出されます。

小宮:え? 川口選手、そんなこと言ってくれましたっけ?

豊田:これもサッカーファンの間では伝説の台詞(笑)。というより選手たちも当時のニュースステーションは観ており、小宮さんのサッカー関連レポートを知っていたということではないでしょうか。

小宮:なるほどね。打ち明けてしまいますが、実はあの最終予選の他の試合はヒデが招待してくれまして。国内の試合は全て会場に応援に行っていたんですよ。

豊田:スタンドにおられたんですか? それ、すべてプラチナチケットです(苦笑)。

小宮:ですよね。だからプレーオフがジョホールバルに決まって現地取材が決まった時は正直ビビりました。私が行って負けたらどうしよう、と(笑)

豊田:いまさらですが、ジョホールバルは日本サッカー史上最大の分岐点だったと思います。アトランタでブラジルを倒した主力メンバーで構成した代表チームが最終予選に臨む。しかも次のW杯開催も日本と決まっている。この代表チームは必ずや予選を勝ち抜いて夢を果たす。そんな楽観的な幻想が、サッカー界全体に拡がっていた印象があります。

小宮:それがすごく苦しいゲームの連続になって……。

豊田:国立で韓国に逆転負けを喰らってから一気に流れが崩れた。アウエーはおろかホームの国立でも下位ランキングの相手に勝てなくなった代表イレブンの硬直には、日本のサッカー好きにドーハを思い起こさせるフットボールの怖さが充満していたと思います。加茂監督が更迭されて首の皮一枚で岡田さん(武史)が引き継いだけれど、流れは変らない。孤軍奮闘する中田のゲームメークがあっても、カズに代わって肝心のゴールを奪える選手が現れない。

小宮:そうそう……(身を乗り出しながら)で、そのお話の先は岡野選手ですよね。

豊田:岡野しかいませんよ、当然。ヒデのキラーパスに追いつけるのは岡野でしょ?フランス行きを決めるのは彼しかいないでしょ? なんで加茂さんも岡ちゃんも使わないんだ……イライラが最高潮に達していたレッズサポーターの気持ちを代弁するように、ラーキン・スタジアムで収録された小宮さんの声がスタジオに響きます。岡野、岡野……浦和の星、岡野……。

小宮:その台詞はしっかり憶えています!

豊田:レッズからは岡野しか代表に行っていなかったけど、その重さを踏まえた上で「日本をワールドカップに行かせる」という応援やサポートを請け負う気概が、当時の浦和やレッズサポーターには存在していたと思います。その意味からも、地元のサッカー好きたちにはあの時の小宮さんの言葉が忘れられない。

小宮:満を持しての出番でしたからねぇ。私も「なんで岡野を出さないの?」の気分が満々だったから、自然と口に出た言葉だろうな。スタンドにいましたが映像は撮れず、隣のディレクターが音声だけを録音する取材現場でしたけど。いや、あの言葉、言っておいて良かった(笑)。

豊田:フジTVが担当した地上波実況は視聴率47.9%を記録。『浦和フットボール通信』は南アフリカW杯開幕に際して記念企画を立て、ガイナーレ鳥取にいた岡野選手に当時を振り返ってもらう取材に赴きました。でも、彼もあの決勝ゴールが決めた後の時間がどうにも思い出せないらしい。「記憶が飛んでしまってる」そうです。
<浦和フットボール通信WEB=「岡野雅行 Vゴールへの疾走』 参照>

小宮:選手たち、ましてや岡野さんはそうでしょうね……見ていた私でさえ、勝利の瞬間は「生きていて良かった」と心の底から叫ぶ状況ですから(ガッツポーズをして見せる)。翌日すぐに放送があったので「弾丸」で帰国しなければならず、青いシャツの観戦スタイルのまんまでフライトとなったのですが……シートに座った後も、拭いても拭いても涙が溢れてきて止まらない。生まれて初めてでしたねぇ、ああいう体験は。仮眠だけでオンエアに臨みましたけど、番組本番の私の顔はひどかったと思います(苦笑)

豊田:岡野選手のゴールシーンは日本のサッカー史を振り返るたびに再生される映像でしょう。しかしこうして振り返ってみると、小宮さんのキャスター歴はどの角度から見てもサッカー関連が外せません。例えばご自身の「会心の取材ランキング」とかを作ったら、複数のフットボールの出来事が含まれるのでは?

小宮:上位を独占するかも(笑)。日本サッカーの一番の伸び盛り、右肩上がりの時代を伴走し、報道させていただいた実感があります。原点はやっぱりドーハ。あの時のみんなの落胆ぶりを見なければ、サッカーに注目し夢中になることもなかったかも知れません。その意味ではサッカー報道に関わらせてくれたスタッフや視聴者の皆さんに感謝したい。政治とか事件とか、重い話題を扱うケースが多い私の仕事歴にあって、サッカーの現場に立ち会えた時間は本当に感動的で、大切なキャリアだったと感じています。

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「サッカーの語り部」を継承する浦和・埼玉の意志。

豊田:さて、そこまで小宮さんを夢中にさせたフットボールの魅力なのですが……。件のイベントで気になる小宮さんコメントがありました。浦和レッズのステージ制覇について「さすがは浦和、もうレッズが優勝しても地元の反応はクールなんですね」と言われた。

小宮:それ、気になっておりまして。ああいうイベントにお呼びいただきながら不思議だったんですよ。(レッズの)久々のタイトルというのに浦和周辺やファンの方々が意外に静かでした。

豊田:小宮さんが報道してきた「サッカーの熱」が足りませんか?

小宮:なんだか浦和は勝ちなれちゃったのかな~、なんて感じたのですが。

豊田:これはレッズばかりではなく、サッカー界全般に表出している問題点と思うのですが……。小宮さんや我々が見てきた日本サッカーの隆盛には、Jリーグ発足やドーハの悲劇に始まるハードルや敗戦の悔しさ、そしてそれを乗り越える苦楽をともにしたファン、マスコミも含めたサッカー界全体が歓喜を迎える……というプロセスがあります。でもそれはNステが果たしてきたような「歴史を振り返り、意識を共有する舞台」が存在しなければ世の中から忘れ去られてしまう。一歩間違えば廃れるスポーツになっていたかも知れないというリスクとか教訓もあったわけです。今回のレッズのステージ制覇を見ていると、市民的には従来のタイトル奪取に盛り上がっていった時代に比べ、クラブとホームタウン、サポーターが手を携えて高みを目ざしたという実体部分が見えて来ない。そういう印象が強いです。

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小宮:Nステ時代のレッズは地元と深く結びついて熱いサポーターの思いに支えられ、Jのシンボルのようなチームだったはず。だから駅前におりたっても優勝を果たした熱気が感じられないことが驚きでした。で、皆さんに聞いてみると、実はそんなに盛り上がっていないとおっしゃる……。例えばレッズの聖地・駒場スタジアムでの試合がなくなり、商店街などの街から存在が遠くなってしまったというお話もお聞きしました。照明の明るさがJ1の基準を満たせないそうですね。

豊田:加えて4万人前後を記録している埼スタの動員を基準にスケジュールを考えれば、収容能力が低い駒場のプライオリティはおのずと低くなる。そういう傾向の判断が最近の主流になっています(苦笑)

小宮:ニワトリが先かタマゴが先かという話になってしまうけど、収支ばかりが優先されるようではサッカーの熱って冷めてしまうのでは? 資金調達の検討くらいはできないのかな。なんと言っても、浦和といえば駒場スタジアムでしょう? 駒場で試合をすることがホームタウンのためになるのであれば、選手がそこで焼きそばを作るファンサービスをやるとか……いろいろ障害はあるのでしょうが、少なくともそういう具体論を議論することはできないのでしょうか。

豊田:そういう双方向の意見交換が、非常にせばめられている現状があります。

小宮:轡田さんが講演会で話されているこの街のサッカー史は埼玉・浦和の宝だと思いますし、選手としても活躍された轡田さんはその象徴的存在だと思います。なのにご著書とかも絶版になっているそうですね。地元の子どもたちに読ませたいのに。もったいない話です。

豊田:『キックオフの笛が鳴る』(1993年 さきたま出版会)ですね。それこそ浦和・埼玉エリアの子どもたちの「夏休みの推薦図書」にして欲しい内容と、個人的には思いますが。

小宮:じゃあ、轡田さんや岡野選手を目ざすべき地元の少年たちのサッカー熱、これはどうなんでしょう?

豊田:浦和エリアの少年団36団は全国でも珍しい活発な活動を30~40年レベルで続けているし、地元をベースとしたクラブチームも盛況と聞いています。しかしこれも気にかかる要因ですが、そういう浦和・埼玉の育成が必ずしも浦和レッズの育成・強化と協調できていません。地元の才能育成、指導者育成を取材・検証してみても、そういう側面は浮かび上がります。

小宮:では地元のレッズサポーターは、埼スタで心からのコールで選手を迎えられていない?

豊田:勝つためにはプロクラブとして補強は必須事項。よってこの面からも納得し、熱く素晴らしいサポートを続けている支持層は存在します。でも先発メンバーの大半が他のJクラブの元主力選手という状態が延々続けば……いかにレッズサポーターといえども「岡野、岡野、浦和の星、岡野!」の熱さはとり戻せないでしょう(笑)。

小宮:(なるほどと頷きながら)納得しました。でも、それまたもったいない話……。こういう悩みって、いまの浦和では持って行く場がないのでしょうか?

豊田:その意味では、轡田さんが「語り部」として小宮さんと地元のサッカー史を復習してくれる件のイベントなどは非常に重要な機会となって来ます。かつてのNステの役割を、私たちのホーム浦和で担ってくれるのでは?と、私たちは期待をよせる次第です。

小宮:なるほどね。実は私はこのところ暑さにもメゲず「戦後70年」を振り返る報道関連やテレビ各局の特集を見つくす作業を続けているんですよ。轡田さんはお元気だけど、この先何十年もお話を聞けるわけではないのだから、年に二度くらいはああいう集いが必要と思う。地元史のフォーマットをしっかり固めてお話が伺えればと思います。埼玉は学校教育の中でサッカーが栄えてきたわけですから、子どもたちに伝えるべき宝物の素材が沢山あるのですから。そういう企画なら、以後も私は喜んで参加させて頂きますよ。

(2015年8月 都内にて)

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