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浦和タウンミーティング第3回Special issue 森孝慈さんを偲び。浦和レッズの原点を知る(1)

「レッズの父」と称された森孝慈さんが亡くなってから1年が経つ。多くの読者から反響を頂いた2010年8月のロングインタビュー(http://www.urawa-football.com/post/4397/)を担当した本誌は、遺された言葉を広くホームタウンに伝えるために「浦和タウンミーティング」第3回を故人を偲ぶ追悼イベントとして開催した。浦和レッズというクラブがいかに誕生したか。どんな人々の熱意によって支えられてきたか。そこには森孝慈さんのどんな熱意が注がれていたのか……。故人と深い関わりを持つパネリストたちによって行なわれたミーティング記録をお届けする。  浦和フットボール通信編集部

2012年7月17日(火)URAWA POINT
ゲスト:落合弘(浦和レッズハートフルクラブキャプテン) 河野正(サッカージャーナリスト)
司会: 椛沢佑一(浦和フットボール通信編集長)、豊田充穂

椛沢:浦和タウンミーティング第3回は、Special isuueとしまして、昨年亡くなった森孝慈さんを偲びながら、浦和レッズの原点を知るというテーマでお話を進めていきたいと思います。今回参加して頂いた落合さん、河野さんは森さんと長く親交があり、森さんへの強い思いがあると思います。今回は色々な思い出やエピソードをお話しいただければと思っております。

落合:森さんの話は、本当はしたくないんです。話をすると涙が出て来ますので。それだけの思い出、思い入れがあります。

河野:私も落合さんほどではないですが、森さんとは無尽蔵な思い出があります。2割は仕事、8割はプライベートですが(笑)。

椛沢:その辺りの森さんへの想いについて、この後お伺いをしたいと思います。まず今回のタウンミーティング開催にあたって、我々が2010年の夏に、森さんにインタビューをさせて頂いたのですが、その時期は、他のメディアには一切レッズの話をしなかった中で、我々の媒体だけに森さんの発声をして頂いたことも、きっかけになっております。

豊田:森さんほどのビックな方が『浦和フットボール通信』のような小さな媒体のインタビューを受けて頂いたことには驚きました。世田谷のご自宅の近くまでお伺いをして、お話を聞いたのが今も思い起こされます。

椛沢:私たちが地元浦和に生まれた地域密着のメディアとして認めていただけたことも大きな要因でしょう。すでにその時点で森さんは体調を崩されていたのですが、暑いさなか長時間にわたって貴重なコメントをいただくことができました。では故人のサッカー人生を辿りながら、お話を進めていきたいと思います。まずは森さんのプレイヤー時代のお話から進めてまいります。森さんは広島の修道高校時代にすでに浦和との繋がりがあったという事実があります。それは、1961年の秋田国体の決勝で森さんの修道高校と戦ったのが、浦和市立だったんですよね、豊田さん。

豊田:はい。インタビューに際して我々が特に森さんに伺いたかったのは、森さんと浦和の関わりは浦和レッズ創設よりもはるか前からの歴史を持つという事実です。おなじみのサッカー御三家・広島のご出身ということも含め、かつてのURAWAとの繋がりをまずはお聞きしたいと考えていました。

椛沢:そうですね。実際には本当に古くからの所縁を浦和に持っておられたことを聞くことができました。

豊田:先ほど、落合さんにも舞台裏でお聞きしたのですが、1961年の国体の決勝で相対したのが落合さんの母校の浦和市立高校。落合さんは森さんと3つ違いの先輩なんですね。そして、実際に落合さんが一緒にボールを蹴っていた先輩たちが森さんの修道高校と戦ったわけです。ここに、その決勝戦の先発メンバー表をお持ちしました。

落合:そうなんですね。でもメンバー表を見ても私はいないでしょ?1年生の頃は、私はメンバーではありませんでしたから、秋田には行けませんでした。1年生では清宮と石井がついていっていました。私は学校の用務員室のラジオでこの試合を聞いていました。その頃は浦和市立を応援しているイメージが強くて、修道高校のイメージはありませんでした。試合は0-1で負けたのですが、修道高校には当時、森さんよりも凄い方がいて、若山さんという方で、今はドクターなんですが、森さんも「俺なんかの比じゃない」というくらいの選手でした。そういう意味でも、森さんは努力家なんです。上手くないんです。森さんは、全部頭で解決をしてしまう頭脳的なプレイヤーだったんですね。考えぬいて色々な動作をする、すごいプレイヤーでした。

豊田:その修道高校の監督が下村幸男さんという方で、その時代の高校監督の範疇を越えた名監督でした。その後には東洋工業の監督も務められて、その東洋工業に対して三菱重工は勝てず4連覇を許すという情況だったのです。当時の下村監督のエピソードを森さんに聞くと秋田国体の最中は「決勝に行くまでに浦和の練習は見るな」とおっしゃったとか。その理由を聞くと「練習を見たら恐くて対戦が出来なくなると考えたのだろう」と言われていました。決勝の舞台は雨だったそうですが、綺麗なグラウンドでやったら80%以上負けだっただろうと……。

落合:そうかもわからないですね。浦和市立はサイド攻撃で、練習の8割はウイングに渡してそこから上げたボールを詰めるという練習しかやっていませんでした。先生は鈴木先生という東大出身の方でした。その鈴木先生はすごい先生で、古いスパイクを履いてきてグラウンドに出てくるんですが、1年生の私に対して、私は当時、山田という名前だったのですが、「山田さん、それではだめだよ」と言うんです。今でもよく覚えているんです。なぜかというと、日本で一番強い高校の監督が、選手に対して、さん付けですよ。その時にここは良い学校だ、良い先生だと思ったんですね。鈴木先生は、サッカーを分析するのが大好きで、後々に息子さんからお話を聞いたんですけど、おやじの部屋に行ったら、シートペーパーが幾枚も敷いてあって、この角度からいったら得点の確立が何%とか、全部書いてあったそうです。我々はそういうものをグラウンドの上で教えてもらった。そういう練習を見たら、下村さんでもこれはすごいと思ったのかもしれないですね。

豊田:興味深かったのが、このメンバー表を見せた時の森さんの反応です。浦和市立のメンバーの方のその後の詳細までとてもよくご存じで、利根沢さん、石井さん、青木さんは日本リーグでずっといっしょにやった方たちでした。浦和市立のOBの方が日本リーグで、たくさん活躍をしていたんですね。そのような繋がりがあるので、レッズ創設において三菱と浦和の縁があった時にはほとんど迷いもなかったと言われていましたね。高校時代の浦和との対戦経験が大きく影響していると感じました。

落合:それはあるでしょうね。

椛沢:森さんはその後、早稲田大学に進学をされて、天皇杯を2回制覇されています。そして、1967年に三菱重工に入社されて、その前の年に杉山隆一さん、横山謙三さんと一緒に落合さんも入社をされています。

落合:その頃は、大学サッカー部に入るには、サッカーで大学に入れる時代だった。でも森さんは勉強で入ったんです。だからダブっている。浪人して代々木ゼミナールに通って、それで早稲田大学に入ったわけです。そういった所も凄いと思う。これだけは絶対に言っておきたいです。

豊田:当時の三菱重工は黄金時代でした。(次のビュアーを指しながら)写真では釜本邦茂さんと落合さんが写っているですが、当初は杉山さんから落合さんのラインが三菱重工の得点源だった。後に落合さんはディフェンダーにコンバートされ、釜本さんのマーク役としても成功したユーティリティープレイヤーでした。

落合:私は元々中学から高校時代くらいまでディフェンダーだった。性格的にもディフェンダーなんでしょうね。高2の時にサイドハーフ、高3の時にインナー、いわゆる攻撃的MFをやっていて、それで得点王になったりしました。しかしその後「いまのままでは使わない。お前はストッパーになれ」と言われる時が来ましてね(苦笑)。その時に「わかりました、その代わりに試合には出してくれますか」と言ったら、次の週の試合に出してもらって、そこからディフェンダーの選手生活が始まりました。役どころは釜本さんのマーカー。そこからですね、ポジションとして決まったのは。(ビュアーの写真を指して)FWをやっている頃は、森さんとのコンビで実に上手いボールをもらったりしました。私は上手くないですからね。良いボールが来ればそれがたまたま足に当たって入っちゃう。そういう得点ばかりでしたよ(笑)。

豊田:ファンの我々から一言付け加えさせてもらいますね(笑)。1969年に三菱重工が初めて東洋工業を破って優勝した時、URAWAの誇りを背負った落合さんは日本リーグ得点王になられています。

落合:あれは、たまたま。運が良かっただけ(笑)。釜本さんが肝炎で試合に出ていなかったんです。私も12点くらいで得点王ですから、少ない方でしょう。釜本さんが調子良くて、ずっと試合に出ていたらダメだったかもしれないですね。人生ではそういうラッキーもあるんです。

椛沢:河野さんも三菱重工時代の試合をよくご覧になられていたそうですね。

河野:私もなぜか三菱の試合を多く見ていましたね。大宮サッカー場でもやっていましたし、国立、西が丘と東京を中心に活動をされていたので、森さん、落合さん、横山さんのいる三菱の試合をなぜか見ていたんですね。日本代表の試合も中学校の頃によく見ていまして、初めて国立が満員になった試合は1975年の1月5日と1月7日ですね。私が中学3年生の時ですね。74年のワールドカップが西ドイツ大会で、そのレギュラーの8人くらいがバイエルン・ミュンヘンの選手だったんですけど、そのバイエルン・ミュンヘンと日本代表が試合をやったんですね。芝は冬枯れをしていて、しかも前日までは雪が降っていたので、ぬかるんだグラウンドでした。その試合は、森さんも落合さんも出ていましたし、横山さんがGKをやって、両方とも代表が0-1で負けているんですよ。一番良い席で観戦をして6000円くらいしたと思うんですけど、日本代表って弱いんだなと思ったのと国立でも冬になると芝が枯れるんだなというのが今でも印象的でしたね。森さんにその当時の思い出話を聞いたら、ベッケンバウアーはハードなプレーをするんだけど、悪質なプレーはしないと。私が詰めると軽くワンタッチでかわされたり、パスを出そうとすると瞬時にパスコースを消された。あんな選手は見たことがないと言っていました。

落合:私も尊敬する選手はベッケンバウアーですから。あんな選手になりたいとずっと思っていました。スライディングをしない選手です。後ろにいるけれどもスライディングをしない。そういうシーンがあったら負けだから、ほとんど読みで守っていた。華麗に攻撃参加をしてカッコ良かったですよね。ドイツ代表でもシュワルツェンベルクという熊みたいな大柄な選手がいて、その選手に守らせて、彼にスライディングをさせて、ボールを奪ったら、ベッケンバウアーにボールを渡して、彼がおいしい所を持っていくという形でした。ベッケンバウアーは本当にカッコ良かったんですよね。

豊田:(次のビュアーを見せながら)釜本さんとネルソン吉村さん、当時の三菱のライバルだったヤンマーのコンビだったんですけど。釜本さんは三菱に来るかもしれないという報道が当時はされていましたよね。釜本さんが三菱に来ていたらどうなっていたんでしょうね。

落合:私はいなかったでしょうね(苦笑)。あんなすごい人が来たら大変ですよ。ヤンマーに行って、最初は花が開かなかったですけど、ドイツ留学をしてからすごく伸びた。ヤンマーに行ったことが結果的には良かったんじゃないですか。

豊田:森さんのキャラクターと釜本さんの破壊力がコンビを組んでいた早稲田は強かったんでしょうね。

落合:森さんもそうですけど、合わせてくれるのが上手ですよ。私は一番印象に残っているのは森さんと杉山さん。彼らのコンビネーションは本当に凄かった。杉山さんはすごく足が早くて、森さんが横についていく、うまい具合にパス交換をしながらやって、ダメだったらやり直しをして、そこからコンビネーションで抜いていく。彼らのプレーは、これぞコンビネーションという感じでした。

椛沢:代表選手としての森さんの活躍というと、メキシコ五輪予選の韓国戦が挙げられます。

豊田:皆さんもメキシコ五輪では日本代表が銅メダルを獲ったという印象が強いと思います。ですが、森さん、杉山さん、横山さんと当時の代表メンバーにインタビューすると、そろって「当時もっとも印象に残った試合はこの日韓戦」とコメントするんですね。国立に5万人以上が詰めかけた試合で、ちなみに私も有料観戦においてはこの夜が国立デビューでした。雨がすごく降っていた中で日韓が3-3で試合を終えて、勝ったほうが五輪に行けるというゲーム。森さんがこの試合で痛恨の失点を喫した場面があるのですが、それがこの写真です。決めたのは韓国トップ下のキム・ギボク選手。釜本さんが3点目を決めた直後、森さんのチャージが少し遅れたために決まってしまった同点弾でした。この写真をお見せしたら森さんは「このシュートなんだよ! 忘れられない。3点目をガマッチョ(釜本さん)に取ってもらったのに僕が遅れちゃったんだよなあ」と言っておられた。前半は2-0で日本がリード。後半2-2の後に3-3まで追いつかれ、雨の泥んこのピッチ上で韓国イレブンが追ってくるというパターンでした。このゲームを教訓にしてメキシコ五輪本大会の代表は森さんをディフェンシブハーブに置き、後ろに鎌田光男さんという古河にいたスイーパーを配置するスイーパーシステムで戦うことを決めたそうです。クラマー・コーチ以下、岡野俊一郎さん、長沼健さんの当時の首脳部の決断ですね。

 

このゲームに関し、もうひとつ写真をご紹介します。これは後半ロスタイムに放たれた同じくキム・ギボク選手のシュートに対する横山謙三さんのセービングのシーンなんですが……終了寸前に日本イレブンは足が止まり、またしても森さん以下のディフェンスラインの前に穴があいてしまいました。山口(芳忠)さんというディフェンダーとの間を突破されて、ロングシュートが飛んできた場面。これは案の定、森さんもよく覚えていて「本当にキモを冷やした」と回想していました。横山さんの頭上を越えた強シュートが、クロスバーを直撃して真下に跳ねたわけです。6万人が悲鳴を上げるシーンだったのですが、あの音響は子ども心にも焼きついていていまだに忘れることができません。

 

落合:そうそう。(メキシコ五輪)銅メダルメンバーは、みんなこのゲームの思い出を口にしますよ。横山さんも片山さんも森さんも、当時の代表選手にとってはこのシーンなんです。みんながキモを冷やしたと……。実は横山さん、(あのシュートを)指先でほんのちょっと触ったそうです。だからクロスバーに当たった。クロスバーには、泥がついたボールの跡がずっとついていたそうです。

豊田:その通りです。この試合後のベトナム戦で杉山さんがゴールして、日本は五輪行きを決めるのですが、そのゴールには韓国戦でバーに当たったボールの跡が刻印されていました。つまり、このシュートが何センチか下に行っていたら日本代表はメキシコ五輪に行けなかった。日本サッカー史が大きく変わっていたかもしれないという現場に森さんは選手として、当事者として立ち会ったということです。

椛沢:そして、森さんの現役引退に並行し、日本サッカー衰退・低迷時代が訪れます。その低迷を打破する切り札でも、これまた指導者となった森さんその人に委ねられることになる。ここからは代表監督としての森さんを語り合いたいと思います。日本代表監督としての森さんの功績は、メキシコW杯出場をかけた85年のW杯アジア地区予選の戦いぶりに象徴される。劣悪だった日本サッカー界の環境下で、すでに5年のプロリーグ経験を誇っていた韓国と「勝った方が本大会出場」という頂上決戦を演じた国立競技場の激闘は、多くのオールドファンの語り草です。6万人以上の観衆を集めたこの試合のエピソードを語り合いたいと思います。

 

豊田:すみません、TV中継も含めてこのゲームを観戦した方、今日ご来場の方の中におられますか?(会場内で多くの手が挙がるのを確認して)はい、やはりサッカーファン伝説の一戦なのですよね。この85年の10月26日の国立競技場までの日本代表は、オリンピックで言えばミュンヘン、モントリオール、モスクワ、ロサンゼルス。ワールドカップで言えば、メキシコ、ミュンヘン、アルゼンチン、スペイン。ことごとく予選で敗れて世界に行けなかった。挑戦権も得られないという時代でした。ウルトラスニッポンの植田朝日君が言っていましたが「日本はドアのノブに手をかけられないどころか、ノックさえ出来ない状態」が続いていたというのが、メキシコ五輪以降の17年間です。そこの挑戦権を初めて得るためには、やはり森さんの力が必要だったということなのでしょう。1985年のワールドカップ予選、代表監督となった森さんは、厳しい条件下で代表選手の環境や競技レベル、対外試合の設定をチェックしなおし、勝負できる日本代表を整えました。ゆえにこの試合は、6万人のファンが駆けつける大一番となったわけです。河野さんはこの試合を見ていたそうですね。

河野:はい。私は木村和司さんのFKの延長線上で、メインスタンドの右くらいの所で見ていました。あれだけ国立がいっぱいになって日章旗が振られている光景に感動した。試合も凄かったのですけれど、とにかく森さんがかっこよかったのを覚えています。当時はベンチがなくて(トラックに設置された)パイプ椅子に座っておられた。日本代表はPUMAのユニフォームだったのですが、森さんはそのPUMAのジャージにレイバンの茶色いサングラスをかけて、座っていた。泰然自若といいますか、ベンチに座って選手を信じて、試合中は大きな指示を出さないで、グッと座っていたのを覚えています。試合が終わってからメインスタンドの観客に一度だけ手を降ったシーンがあって、それが異常にカッコ良かったのを覚えていますね。

豊田:(木村和司選手のFKの写真を指しながら)あのゲーム唯一の日本の得点シーンです。キックをしているのが木村和司さんで、その向こう側に立っているのが水沼貴史さんですね。当時の浦和のファンからすれば、水沼さんはいわば最後の「赤き血のイレブン」の生き残り。彼が代表として韓国との大一番に出場するのですから、この日は絶対に(国立競技場に)行かなければと気合いが入りました。お手製の日の丸とかを作ってスタジアムに集まりましたね。試合は2-1の敗戦。日本の本大会出場は絶望的となり、帰り道に日章旗が捨ててあった光景が物悲しかったことを覚えています。この年はプロ野球は21年ぶりに阪神タイガースが優勝。同じ日に日本シリーズ初戦があってスポーツ番組は日本シリーズ一色だったのですが、国立競技場で何があったのだとTV関係者を驚かせた大観衆でした。このメモリアルゲームにも監督として日本代表ベンチに座ったのが森さんであったわけです。

落合:このゲームの結果は日本サッカー協会にとってもショックだったと思いますよ。森さんは現役を引退してから日本サッカー協会の派遣で、1年間ドイツでコーチ学を学んでいました。その段階を踏んで監督になられて、この舞台まできたわけですから。

河野:付け加えますと、この当時のサッカー協会の専務理事は長沼健さんという、後に埼玉スタジアムの場長もされていた方ですが、韓国のアウェイでも負けたのが森さんの最後の試合だったんですが、その時に長沼さんに、当時は韓国が先にプロ化をしていたので、日本もプロ化をしないとアジアさえ勝てないので、長沼さんなんとかしてくれという話をしたそうです。その後に日本代表の待遇についても日当が3000円くらい出るように長沼さんがしてくれたそうです。Jリーグが創設されてプロ化になったことも、森さんの力が大きかったと思いますね。森さんが提言したのはずいぶん前ですが、初めて世界に近づいて、Jリーグを世界に近づけさせた焦点をあててくれた功績があったと言えるでしょう。

椛沢:日本代表の選手、監督として20年以上の歳月を「日の丸」に捧げた森さんの功績は、韓国でも広く知られています。写真の人物は、67年五輪予選ではDFの主力、85年W杯予選では監督として森さんと出場権を争ったキム・ジョンナム。何度も彼にインタビューしている豊田さんからエピソード紹介を始めてもらいましょう。

豊田:金正男さんは1967年のメキシコ五輪の予選でもDFとして試合に出ていました。(日韓戦の写真を指しながら)このカットを韓国に持参して見せたところ、「あのゲーム以来、自分はガンバルゾ、ガンバルゾなんだ」と……そうおっしゃいました。「ガンバルゾ」は日本語でね(笑)。67年の五輪予選は選手同士として対戦し、85年のワールドカップ予選の時は監督同士として対戦。今度は金正男さんが森さん以下の僕らの夢を打ち砕いた指揮官となったわけです。20数年間、選手、監督として日韓のサッカーを支えてきた間柄ですねと窺いましたら、実はその前の1965年の早稲田大学と高麗大学との交流戦の頃から気があって交流をもっていたとのこと。一体どうやって会話したのかなと思っていましが、さすがは日韓のエリート同士。通訳なしの英会話で互いのサッカー状況、指導者としての育成環境などを情報交換していたそうです。山田直輝君が出場したU-17の世界大会が韓国で開催された折にも金正男さんが蔚山まで呼んで下さってお会いしたのですが、その時には「今になってミスター森の偉大さがよく分かる。あれだけ色々なものが不足していた日本サッカー界にあって、あの代表を作った功績が今になってよく分かる」とおっしゃっていました。2008年段階ではKリーグはお客さんが来なくて、森の浦和レッズはどうして、あんなに人を呼ぶのか、日々研究をしていると言っていましたからね。その意味で、森さんとは終生に交流を持ちたいライバルだったとおっしゃっていた。85年のワールドカップ予選。森ジャパンの敗北は、日本サッカーがプロ化への舵を切る大きなきっかけになったと思います。

落合:日本での森さんの存在と、韓国でのキムさんの存在は同じような存在でした。ふたりとも国を代表し、それぞれの国のサッカーを象徴する名選手。すごくかっこよかったですから……。

<第1部 終了>

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