浦和フットボール通信

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Remember 11.27:URAWAは、あの日を忘れない “王国の思い”を 駒場に刻印した少女のひと言。

11.27 浦和レッズがJ2降格したあの日から14年の月日が経った。いま、一度あの時の想いを噛み締めたいと思い、本誌2009年11月の特集「URAWAはあの日を忘れない」をアーカイブにて公開を致します。

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11.27は格好のトピックス映像としてメディアを席巻した。だが、「レッズ降格」が他のスポーツシーンと同列には語れない悲劇であったことは、やがて明らかになる。試合終了後、浦和の選手たちがトラックから観客に向かって頭を垂れるVTR場面。すすり泣きがもれる駒場のスタンド最前列で、父親に抱え上げられた赤いレプリカの小さな女の子がレッズイレブンに向けて放った叫びは、サッカーの街が迎えた“あの日の痛み”を象徴する言葉としてホームURAWAに反響を呼んだ。「レッズは優勝するためにいるのだから!」―――

プロフィール: Misaki (仮名)
1993年(Jリーグ元年)生まれの高校1年生。99年当時は6歳の幼稚園生。物心つかぬうちから熱烈なレッズサポーターだった両親に連れられて駒場バックスタンド最前列に通い、レッズのサポートに参加する。大人たちに混じってチャントやコールを歌い、ゴールと勝利を皆で喜ぶことが大好きだった少女にとって、11.27は「大好きだった駒場が、静けさと涙に包まれる暗闇に一変した恐ろしい瞬間」であったという。
(編集部注:「当日の経験と自己の発言は、レッズサポーターの方々と駒場が与えてくれたものと考えている」との本人意向を尊重し、仮名での掲載とさせていただきます)―――インタビュアー/豊田充穂

UF:当時のミサキさんは幼稚園年長組。一緒に映っている父上やご家族ともども、駒場の常連だったそうですね。

:私と父はいつもバックスタンド最前列、母は2歳だった妹を抱いてその後方が定位置。サポーター仲間の大人たちに囲まれて、レッズのゴールに無邪気に跳ねている女の子でした。生粋のURAWAファミリーそのものですが(笑)、実は都内から家族全員で遠路を通い続ける「県外サポ」。でも、両親はJ開幕当初からレッズひと筋でしたね。スターを揃えた常勝のヴェルディよりもサポーターが必死に支えて1勝を喜び合うレッズ、という価値観。私も3歳くらいから、何度「力」に連れて行かれたか分かりません(笑)。

UF:それにしても反響を呼んだテレビ映像でしたが……。発声した瞬間を憶えていますか?

:もちろん。子どもなりの“レッズ愛”が言わせた言葉と思っています。当日は両親から「今日は特別なゲーム。負ければJ2に落ちる」と教えられ、その意味は理解してた。でも私にとっては選手は絶対的なヒーローで、「レッズこそ最強」と信じ切っている子でしたから。なのに福田さんのあのVゴールから選手の涙を見て、父や母や多くのサポーターの方たちの涙を見て……大好きだった駒場がどんどん暗転していく。そんな情況が子ども心に耐え切れなかったのでしょうね。レッズは終わっていないもん。レッズは最強だし、選手はかっこいいんだもん。そんな感情があふれ出たのがあの言葉です。

UF:パパに抱かれる年齢だったあなたの姿が重なっているだけに心に響きます。しかもそのひと言が、郷土の栄光をレッズに重ねる夢が叶わなかったURAWAの思いに見事に重なってしまうところが駒場の魔力。6歳の女の子にあの場面であんな言葉を叫ばれては、おじさんサポーターは涙なしに見ちゃいられない(笑)。

:URAWAのサッカー史など知るはずもない子どもにさえ、その誇りを体感させてしまう雰囲気が当時の駒場にはあったのだと思います。両親もそれに魅せられていたわけですし。だからあのスタンドに秘められた思いをそのまま写し取った言葉が、幼かった私の口から飛び出した……。

UF:あなたの“その後”にも、大きな影響をおよぼす言葉だったのでは?

:あれから私はJ1復帰もナビスコ制覇も、J制覇もアジア制覇も、すべてスタンドから見届けて来ました。いまの私があの場にいても、とても言えない言葉でしょうね(笑)。11.27が「過去のこと」になり、We are Reds! が単に「皆でレッズ勝利を求める象徴」とされる風潮があったとしたら残念なことです。レッズを応援する客席は、ホームタウンに受け継がれてきたサッカーへの様々な思いが宿る場所。そのことが理解されない限り、URAWAらしい結束はサポーターにもクラブにも生まれない……。そんな思いを込めて、これからもレッズを応援して行こうと思います。

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