<これが私たちが望んだホームタウンなのか?Vol.2>吉沢康一・特別リポート 育成改革は地元から!エスクデロの挑戦。
レッズサポーターにとっては「あのセルヒオの親父さん」、いや「オズワルド・エスクデロの弟」と言った方が分かりやすいかも知れない。J開幕前のプロサッカー黎明期。レッズ攻撃陣を福田正博とともに牽引したアルヘンチナの舎弟は、四半世紀が過ぎたいまも日本、それも埼玉の地で若き才能発掘に心血をそそいでいる。ホーム浦和のフットボールの空気を当時から見続けている吉沢康一氏のレポートで、その提言をお届けする。(浦和フットボール通信編集部)
Text: Koichi Yoshizawa photo:Yuichi Kabasawa
セルヒオ・アリエル・エスクデロ Profile
1964年2月10日アルゼンチン生まれ。元浦和レッズで、現在中国リーグの江蘇舜天でプレーするセルヒオ選手は、この息子である。浦和レッズのジュニアユースの前身として高円宮杯(U-15)を制した『浦和スポーツクラブ』コーチ、埼玉栄高校の総監督としてインターハイ、全国高校サッカー選手権にも出場させた。アルゼンチンサッカー協会S級ライセンスを持ち、Jリーグにも何人ものプロ選手を送り出している。現在はさいたま市にあるロクFCのジュニアユースチームの監督として中学生を指導する毎日。また「セルヒオ・エスクデロサッカースクール」も開催している。
6/25発行 浦和フットボール通信Vol.58 でも特集掲載
セルヒオ・アリエル・エスクデロ、1964年2月10日生まれの51歳。
「エスクデロさん」、「セルヒオ」、「セルヒオさん」、「セルヒオコーチ」、「セルヒオ先生」、「セルヒオのお父さん」、「セルパパ」、「セルさん」……。
元浦和レッズで韓国のFCソウルでプレーした後、現在中国リーグの江蘇舜天でプレーするセルヒオ選手(以下セルヒト)はセルヒオの息子だ。親子の名前が同じなので、二人を並べて記すときは少し苦労するのが、父親であるセルヒオは、さいたま市にあるロクFCのジュニアユースチームの監督として、日々、中学生の指導にあたっている。
セルヒオは浦和レッズのジュニアユースの前身として高円宮杯(U-15)を制した『浦和スポーツクラブ』のコーチ、埼玉栄高校の総監督としてインターハイ、全国高校サッカー選手権に出場させた実力は折り紙つきだ。アルゼンチンサッカー協会S級ライセンスを持ち、Jリーグにも何人ものプロ選手を送り出している。またロクFCの指導の他には水曜日に東大宮(@Cap Futsal Field 東大宮)、木曜日は志木(@エフボックス・フットボールパーク秋ヶ瀬)で「セルヒオ・エスクデロサッカースクール」も行っている。クラブに所属していなくてもセルヒオの指導が受けられるとあって、ロクFC以外のチームの選手の参加も多く、平日にもかかわらず、横浜から通ってくるスクール生もいるのだが、セルヒオの独特な指導を知っていれば、それも驚くことではない。
言葉の問題もない。容姿こそ外国人かもしれないが、2007年6月11日には日本に帰化しており、れっきとした日本人でもある。
「アルゼンチンは二重国籍問題ないですが、日本はダメ。アルゼンチンは持っていても良いと言うけれど、私は日本のパスポートしか持ってないですよ」と、流暢に日本語で微笑んでわらわせてくれた。
初来日は92年3月。
春が訪れる前のまだ寒い日本にセルヒオは初めてやってきた。
あれから23年の時が経った。いろいろな思いもあるが、日本に骨を埋める気持ちでいる。
「日本のどこが好き? 一言でいうのは難しいけれど、みんなちゃんとしている(笑)決まった時間に電車がきて、決まった時間に人が集まって、何でも物がたくさんあって、便利。一言でいうのは難しいけれど、好きです。じゃなかったら、日本人にはならないでしょ」
確かにそうだろう。日本が嫌いで日本人になる訳がない。セルヒオを語るなら、その前に彼の兄である≪ピチ≫オスバルト・エスクデロを知る必要がある。≪ピチ≫は今、現在エルサルバドルの『サンタ・テクラ』で監督を務めているが、アルゼンチンでも有名人の一人だ。身長は160㎝(公称。実際はもっと小さいと言われている)と小さかったが、卓越したテクニックと抜群のスピードを誇っていた。現役引退直後に『エル・グラフィコ』(アルゼンチンで最も有名なスポーツ誌)で特集が組まれるほどの人気者で、ビッグクラブのボカ・ジュニオルスやインデペンディエンテでもプレーした。1979年、日本で開催された『第2回FIFAワールドユーストーナメント(現・U-20FIFAワールドカップ)』の優勝したアルゼンチンユース代表のメンバーで、大会MVPの≪マラドーナよりも小さい選手≫として、有名になったがオスバルト・エスクデロ、≪ピチ≫だった。
≪ピチ≫は何をかくそう浦和レッズ(三菱自動車サッカー部)の初めての外国人選手だった。Jリーグが始まる直前、91年に日本にやってきた≪ピチ≫は、最後の『日本リーグ』にやってきた外国人選手でもあった。
チーム加入は運命的だ。エクアドルのバルセロナというクラブでプレーしていたピチは、日本でのプレーに興味を抱いていた。その情報を日本のエージェントが聞きつけ、アルゼチン選手に興味を持っていた浦和レッズ初代監督の森孝慈さん(故人)に話をしたところ、森さんはすぐにエクアドルに旅立ち即契約となったのだ。この時、森さんがエクアドルに旅立っていなかったら、セルヒオの来日もなかったし、現在中国リーグの江蘇舜天でプレーするセルヒオと浦和レッズは出会うことはなかった。
「≪ピチ≫に誘われて日本に来たんです。アトランタとの契約がきれて自主トレしかしていなかったからコンディションは良くなかった。でも紅白戦でAチームに4-1で勝って、3点とったんです。それを清水(泰男。後に浦和レッズ社長)さんが気に入ってくれて、森さんに契約したらと言ってくれたんです」
晴れて契約の運びとなったものの、順風満帆とは行かず、トップチームではチャンスが回ってこなかった。ケガもあり、サテライト暮らしが続いた。そろそろ契約が切れると思っていた時に思いがけないオファーが舞い込んだのだ。それはジュニアユースチームのコーチ就任の打診だった。プロサッカー選手を続けるか岐路に立たされていたセルヒオだったが、このオファーに賭けることにした。まだ20代で若かったが、迷いはなかった。年俸が大幅に下がると聞いた≪ピチ≫が怒ってクラブにかけあってくれたのも嬉しかった。クラブは≪ピチ≫の説得に応じ、現役時代と同じサラリーでセルヒオとコーチ契約を結んだのだった。選手のキャリアは浦和レッズで幕を下ろした。だが、それは指導者セルヒオのスタートでもあった。
初練習はオーバーヘッド!? 衝撃のトレーニング方法
「最初のトレーニングの時にぶったまげました。浦和レッズに入って最初の練習はオーバーヘッドですよ。セルヒオが『よく見てね。こうやるんだ』って。そりゃあ、盛り上がりましたよ。オーバーヘッドですから。Jリーグは違うなって。本当はセルヒオが他の指導者と違うんですけれど。もう中学の時は練習行くのが本当に楽しみでした」
今はとあるJリーグクラブで働いている浦和レッズジュニアユースのOBが当時を懐かしく語ってくれた。“ひと味違う指導”は評判になった。もちろん一生懸命に学ぼうとするセルヒオの前向きな姿勢は指導よりも知れ渡っていった。今はパートナーであるロクFCの浅井重夫代表も当時を振り返る。
「とにかく研究熱心でしたから。当時はロクも強かったのですが、練習試合でも、どこで聞きつけるのか『えっ、また観に来ているの?』ってくらい、観に来ていました。本当に負けず嫌いですからね。それだけ努力もするのはセルヒオのいいところで、今、一緒にサッカーをしているのも、何か運命なのかなって」
下部組織を立ち上げるにあたって、浦和レッズは浦和スポーツクラブと提携して、そこに指導者を派遣していた。おりしもJリーグブームの最中であり、メンバーのセレクションには600人からが集まった。そこから2次セレクションで100人に減り、最終セレクションでは25人ほどに絞られ、すでにスカウトされているメンバーか8人から9人いたので、残れるのは16人か17人と狭き門だった。選ばれし精鋭たちと、研究熱心な外国人コーチは1995年の高円宮杯U-15に優勝。翌年浦和スポーツクラブから移行され浦和レッズジュニアユースとなるが、このタイトルはいわば浦和レッズのクラブとしての初のタイトルでもあった。後に浦和レッズのメンバーに名を連ねる高橋厳一や千島徹らが在籍していた。
「日本では首がしっかりしていないから危ないと、ジュニアではあまりヘディングの練習をしないんだけど、やっぱりやらないとダメ。ちゃんとしたやり方を教えれば危なくないから。ボレーキックでもオーバーヘッドでもそう。練習しなかったら出来ない。いっぱい練習すれば、上手くなるのは当たり前」
セルヒオはアルゼンチンの北部、ブラジルとの国境付近、コリエンテス州にあるパソデロスリベレスという村で双子の弟として生まれた。父親は軍人でアルゼンチン国内を転々としたが、兄弟が夢中になったのはサッカーだった。父親もプロチームからも誘われる実力の持ち主で軍隊ではエースストライカーだった。4人の子供のために専用の練習場を庭に作って、基礎練習はもちろんのこと、アクロバチックなプレーも教えてくれた。
父から子へ、子から孫へ。
セルヒオはセルヒトが歩けるようになった頃から、アルゼンチンでは普通の事とボールを蹴らせて遊ばせた。そしてセルヒトの2歳の誕生日にはゴールをプレゼントしたという。
「小さなゴールでネットをきつく張って、ゴールすると跳ね返ってくるようにしたの。ゴールが決まらないとボールを取りに行かないといけにないから、セルヒトは必死にゴールにボールを蹴ってね(笑) あと風船とか、柔らかいボールとかでヘッドは怖くない、格好いいんだよって教えて。ベッドの上とかマットとか柔らかいところでオーバーヘッドの形を教えたりね。小さくても練習できるんだよ。それにみんなやりたいんだから」
蹴り方も分からない、どう動いていいのか分からないのに、ベンチから激しく叱責する指導者の姿を目の当たりにして心を痛めている。環境は経験よりも重要だと感じている。
エスクデロ一族
セルヒオは、4人兄弟で長男のファン、次男のオスバルト、双子の兄のカルロス、そしてセルヒオの憧れは父親だった。兄のマネをして父親に褒めてもらうのが嬉しかった。知らず知らずにサッカーに魅了されていく環境がエスクデロ家にはあった。そしてそこはアルゼンチンだ。サッカーに事欠くことはない。兄弟の中で頭角をあらわした≪ピチ≫はプロ選手となり、ユース代表のレギュラーとして世界大会で優勝。≪ピチ≫からはチームメイトのマラドーナも紹介してもらった。セルヒオも16歳でプロ選手となり、アルゼンチンのユース代表にも名を連ねるようになった。
「フル代表とユース代表が練習試合をした時があって、マラドーナが交代する時に私が交代で入ったの。みんなマラドーナに拍手をしているのだけど、自分が拍手されているみたいで気持ち良かったよ。あんな経験はいままでしたことがない」
蛙の子は蛙である。
セルヒトは言わずもがな、≪ピチ≫の息子であるダミアン・エスクデロもまたプロサッカー選手であり、アルゼチンU-20、U-23代表として活躍し、ヴェレス、ボカ(いずれもアルゼンチン)、ビジャレアル、バリャドリー(いずれもスペイン)、グレミオ、アトレチコ・ミネイロ、ヴィトーリア(いずれもブラジル)でプレーしている。4人兄弟の長男、ファンには3人の息子がいて、その長男のファン(やはり父親と同じ名前)は現在ボカ・ジャパンのコーチであり日本在住。次男のナウエルは埼玉栄高校の中心選手として活躍した。三男のサンチァゴはアルゼンチンの古豪クラブウラカンの下部組織に属している。セルヒオの双子の兄、カルロスの息子も長男のカルロスもプロとしてディポルティーボ・メルロ(3部)でプレーしている。まさに父から子へ、子から孫へ。口移しにサッカーが伝えられるエスクデロ家はまさにサッカー一族なのである。
「そういえば、昔だけど、マラドーナの別荘でマラドーナファミリーとエスクデロファミリーで試合をしたこともあるよ。向こうもみんなサッカーをしている。こっちもサッカーをしている。もちろん真剣勝負で。どっちが勝ったって? 向こうにはマラドーナがいるよ(笑)」
再び日本に
アルゼンチンで指導者ライセンスを取得後、2001年に日本に戻ってきたセルヒオは柏レイソル青梅(現AZ’86 東京青梅)のコーチとなった。監督は浦和レッズ時代のチームメイトの二宮浩。ここで約1年半指導した後に2003年4月から埼玉栄高校のコーチ(後に総監督)に就任した。
「埼玉栄高校では10年間いろいろなことを学ばせてもらいました。お亡くなりになった前理事長には大変バックアップしてもらいました。教員ではないけれど、先生と呼ばれて(笑)、7時40分には登校指導で出勤して練習開始は16時。長かった(笑)磯貝一直先生(退職)とコミュニケーションがとれるようになって、一気に強くなりました。学校のバックアップで県外から優秀選手がたくさん入ってきて、甥のナウエルは海外留学生として受け入れてくれました。2005年から6年連続でアルゼンチン遠征を出来たことも大きな収穫でした。選手たちはアルゼンチンで本場の本当のサッカーを経験しました。リーベルやロサリオ・セントラルといった強豪クラブのユースチームと互角に戦った年もあります。日本人でも通用することは、たくさんあると彼らはそこで初めて知ったと思います」
当時の埼玉栄高校は小気味良くショートパスを繋いで、ボールを大事にしながらも、ボールに関わっていない3人目の選手が大胆に動きを見せる、スピーディーで攻撃的なサッカーをしていた。埼玉栄高校での在任期間には県内4冠(新人戦、関東大会、インターハイ、高校サッカー選手権)を獲得する他、常にトップレベルでの戦いを繰り広げてくれた。またジェフ千葉でプレーする町田也真人のように、身体が小さな選手もセルヒオの手腕にかかればトップレベルで通用することも証明してくれた。
「ヤマトのように小さな選手でも問題ない。もちろん190センチある大きな選手は魅力があるけど、サッカーには身長制限はないからね。それよりもテクニック、センス、一番大切なのは戦えるかどうか。それが重要なんだよ」
上手い、下手じゃない。戦うか、戦わないか。日本サッカーの欠落点と思う。
アトレチコ・マドリードの監督であるディエゴ・シメオネの代名詞は『cuchillo entre los dientes』(クチージョ・エントレ・ロス・ディエンテェス)だ。直訳すると「口にナイフをくわえて」となるが、日本人にはその意味がしっくりと伝わらない。そこでアルゼンチン在住のサッカージャーナリスト、チヅルフジサカ・デ・ガルシアさんに訊ねてみた。
「アルゼンチンでは『激しい勢いで戦いに行く』という姿勢を意味します。シメオネはピッチに入るとき、いつもそういう姿勢でいました。ウルグアイでも「ガーラ」と同じ意味で使われます。」※ガーラ=鋭い爪 ラフプレーと言われてもおかしくない圧倒的な闘争心を見せること。
なるほど腑に落ちた。セルヒオもまたこの言葉と同様に、選手たちを鼓舞し続ける。
「上手い、下手じゃないんだよ。戦うか、戦わないか。お前たち戦わないでいいのか? 男だろ。失敗を恐れちゃダメ。ピッチに入ったら、戦わない話にならない」
顔を赤くして、大きなジェスチャーで、鋭い眼光で選手たちの目を見て矢継ぎ早に言葉を繰り出す。だからといって汚いプレーは許さない。ある日の紅白戦。セルヒオは笛を吹いて突然ゲームを止めて静かにこう言った。
「お前、相手を引っ張ったり、シャツを掴んだりするけど、それは守備じゃないよ。間違ってる。間に合わない、走ってないからシャツを掴んでる。お前それじゃ上手くならない。ダメ。激しいとズルいは違う」
ブラジルのマリーシアでも同じ。知性のない「ずる賢さ」はただの「小賢しさ」でしかない。もちろん指導の中では理にかなったプロのテクニックも教えてきた。
「セルヒトがレッズにいる時、ガンバと試合をして相手にナカザワソウタがいました。彼は顔の前に手を出してレッズの選手をうまくブロックしていました。ファールじゃない。プロの技。相手の選手が簡単にプレーできない。試合後に会った時に笑って『ズルいんじゃない』って言ったら、『セルヒオさんに教わった』って。そうズルくない。プロのテクニック。手を大きく広げて、相手の顔の前に出しておくのはアルゼチンでは常識。世界の常識。ソウタはずっと前からそれを知ってる。だから長くプロで活躍している」
中沢聡太(現セレッソ大阪)も浦和レッズ時代のセルヒオの教え子の一人である。
「セルヒトが韓国でプレーしてあらためて思ったのだけど、日本は戦える選手が少ないなと。上手い下手の問題じゃない。韓国人は日本人と試合をする時はサッカーだけじゃない特別な試合と思って向かってくるけれど、日本はそう思っていない。それだけ。相手のゴール前で仕掛けていく選手も少ない。技術は良くなっているけれど、そこを変えないと日本は強くならない」
セルヒオは言う。アルゼチンも70年代の途中までは「アマチュアのサッカー」だったと。そんな折にメノッティが代表監督となり、ドイツから学んだフィジカルトレーニングを導入して毎日しっかりトレーニングをするようになってワールドカップ優勝という結果に結びついたのだと。メノッティは南米のサッカーとヨーロッパのシステマチックなサッカーを融合させて、激しさと美しさを兼ね備えた≪新しい南米スタイル≫を体現化したが、4年後にそのサッカーは研究され通用しなくなってしまった。メノッティの後任ビラルドは対照的だった。3バックで守備を固めて相手の長所を消すサッカーを導入すると、不世出のスーパースターであるマラドーナを擁して再び世界の頂点に立ったのだ。どちらのサッカーが良いとか悪いとかではなく、世界の頂点に立った二つのチームに共通していたことがある。それこそが『cuchillo entre los dientes』であり、「絶対に負けない」という戦う心を選手も国民も、アルゼンチンを愛する全てが持っていたとセルヒオは言った。
「日本人も上手くなってるし、技術は問題ない。でも勝負しなきゃいけないところ、負けちゃいけないところで頑張れない。ペナルティエリアにドリブルで仕掛ける選手は少ないし、ゴールの前で急に弱気になっちゃう。これは逆。ゴールが近づいてきたら、何が何でも入れるんだという強い気持ちでチャレンジしないと。チャレンジして上手くいかなくてもそれは失敗じゃない。褒めてあげなくちゃいけないけれど、日本人指導者は褒めるタイミングがちょっと違うかなって。あと、叱り方が下手(笑)ダメなときはダメと言わなきゃいけない。あと、うまく叱ってあげる。上手く叱れば褒められたときに、いつもよりも喜びもおおきいでしょ」
埼玉の「ファール」は、県外に行けば「ノーファール」……本当だよ。
「埼玉栄で全国大会にも出たけれど、県外のチームとやる時にいつも感じていたことがあります」
シリアスな表情でセルヒオは話した。
「埼玉の選手はセルフジャッジして、自分でプレーを止めてしまうことが多いです。埼玉で『ファールだよ』って思ったプレーも県外ではノーファール。私が見ていても全然問題ない。だからノーファール。それなのに自分でファールと決めてしまう。練習の時から厳しく指導していても、試合になるとそうなってしまう。理由は簡単、ちょっとしたボディコンタクトでもすぐに笛が鳴ってしまうから。球際に厳しく寄せていったら『ピィー』って笛。でも、それは埼玉だけ。本当だよ。だから他の県で試合をすると、最初は戸惑っちゃう選手が多い。とにかく笛を吹くのが多いかな。それでいて、本当に危険なプレーを流しちゃう。ケガをしてしまうようなプレーが流されて、何でもないプレーに笛がなる。審判が間違った時はどうすればいいのか?アルゼチンでは判定は覆らないけれど、間違った判定をしたらそのビデオを後で見せると、もうその審判がそのチームの笛は吹かないよ。審判だって人だから間違いもする。素晴らしい審判もいる。審判同士でかばい合っているうちは良くなっていかない。それに一番大事なのは審判じゃなくて、選手たちで、試合でしょ。彼らが主役になっちゃいけないよ」
アルゼンチンではアンダーエイジであっても、試合をする時には警察、ドクター、そして審判が協会から派遣されることになっている。安全と公平を保つために三者がいなければ試合をすることはできない決まりになっているという。選手のレベルが向上すれば「お父さんレフェリー」では捌ききれない試合も多くなる。「良い試合」と「悪い試合」は審判の出来とのさじ加減で決まると言ってもいいとセルヒオは言い切る。だからこそ、審判のレベル向上のためには、審判にもしっかりとギャランティをする、あるいはその額を増やす等努力が必要ではないかと考えている。
「例えば両チームから2000円ずつ払う。そして協会が交通費を1000円出す。2試合審判をしたら1万円くらいになる。高くはないけれど、悪くはないと思う。そういうことも必要じゃないかな。」
優れた才能がよそでプレーしてる。選手たちのせいじゃない。ここが埼玉の一番の問題
「技術の向上に関しては初めて日本に来た時と比べるとずいぶんと進歩していて、リスタートもかなり早くなって、サッカーを知っている選手が増えてきた。本当に技術は悪くない。でも、ずっと思っていることは、DFの仕方が物足りない。粘り強くないし、諦めてしまう選手が多いね。あとはハングリーさの欠如。サッカーに対しての熱さを感じられない時があるのは、とても残念。練習を休んでしまう選手が多いかもしれないね。理由はいろいろ。ケガだったり、家族と過ごすからだったり。でも、レベルアップするには練習は休んじゃいけない。ケガをしてもやれることはあるし、大事な試合があるのが分かっていたら、その前の練習は大事な練習だから休んだら試合には使えない。高校サッカーに関しては埼玉の選手が埼玉に残らない。これが一番の問題。良い選手がいても県外に行ってしまう。その逆なら、埼玉にどんどんいい選手が入ってくるのだから、その選手たちと埼玉の選手が競い合えばレベルが上がるじゃない。でも今は逆で埼玉にもいい選手はたくさんいるのに、埼玉じゃなくて他の県でプレーしている。埼玉が勝てないのはそこにも原因があると思うよ。選手たちは悪くない。だって他の県に行ったら、中心選手で出ているんだからね」
人材流失といわれてずいぶんと時間が経っているが、その解決策は未だ見出されていないのが現実である。J下部組織が2クラブあることから、人材流失も多少は収まった感はあるものの、もっとも優れていると言われているそのレベルの選手がプロまで到達しないことに歯がゆさを覚えるのはセルヒオだけではないはずだ。
父親 セルヒオ
「親の目から見てだけど、セルヒトにはハングリーはあると思う。プロになってからも『負けたら悔しくて寝られない』ってずっと言ってるよ。もちろんセルヒトは浦和レッズへの思いはハンパないし、彼はアルゼンチンにいた時も忘れたことはないし、日本に戻ってきたときも、一日も早く『浦和レッズ』の一員になりたいと思っていたから。16歳でプロになって、試合に出られない時もあったけれど、少しずつ本当のプロになっている。韓国に移籍して自分のプレースタイルを取り戻して、中国でもゴールをとれるようになってきた。セルヒト本人は、とにかく活躍して日本代表でプレーしたいといつも思っているしね。それにはゴールを取りつづけること。そしていつか、日本に戻ってきて、浦和レッズのユニホームを着て埼玉スタジアムでゴールをすることがセルヒトの夢じゃないかな。私の夢はセルヒトがいつか引退したら一緒に仕事をしたいなと思っているんだけど、そうしたら『僕もいつかはお父さんと仕事をしたいけれど、今はとにかくロクFCとサッカースクールを頑張ってたくさんいい選手を育ててください』って逆に言われちゃったよ(笑)。もしチャンスがあったら、《ピチ》と一緒にトップレベルの監督やコーチをしてみたいという気持ちもあります。そしてセルヒトとも仕事をしたい。あとは、埼玉でアルゼンチン料理のお店も開きたいね。家族みんなで力を合わせて働きたいと思っているよ。あっ、日本はアルゼンチンのようなサッカーの環境はなから、良い選手が出てくるには、お父さんたちがもっと『サッカーバカ』だと言葉は悪いから(笑)、サッカーに熱中、いまよりもっと、もっと子供のサッカーに熱中することが大事。言うだけじゃなくて、一緒に汗をかいて、泥んこになって子供とボールを蹴ったら、もっと上手いサッカー選手が出てくる。やれないのは仕方ないけど、やらないでいろいろ言われたら子供はサッカー嫌いになっちゃうよ」
――話は尽きることがない。
インタビューはセルヒオの自宅近くのコーヒーショップでおこなったが、気がつけば1時間と思っていたインタビューが4時間近く経過していた。「プロのサッカー指導者だから、結果も出さないといけません。でも結果だけでは、人の気持ちが動かないのも確か。技術を上手くするのは難しくない。人の気持ちを動かすのは難しいけれど、プロだから弱音は吐いちゃいけない」
経験ではなく、環境を作っていく努力を続けることが必要だと力説する。セルヒオは6月からはアルゼチンの名門、リーベルプレートと提携した『リーベル・プレート・ジャパン・フットボールアカデミー』(@ミズノフットサルプラザ所沢)のヘッドコーチも兼務し、さらに忙しい日々を送ることになる。
最後になるが「選手として」、「指導者として」、「父親として」、浦和レッズと関わりを持っているのはセルヒオただ一人である。彼もまた、誰よりも浦和レッズを愛している「レッズ者」であることを付け加えておきたい。