浦和フットボール通信

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引退を決めた平川忠亮と小野伸二の存在【河合貴子のレッズ魂ここにあり!】

J開幕から浦和レッズを追いかけている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

いつの日か共に

『VICTORY』を示すV型に並べられた数々のタイトルが、栄光に包まれた勝者である証しであった。

平川忠亮選手は、愛おしそうにじっと見つめて17年間歩んできたプロサッカー選手としての人生に終止符を打った。

引退セレモニーで平川選手は「小さい頃から、とにかくサッカーが好きで、暇さえあればボールを蹴っていたのをよく覚えています。そんなサッカー少年が、いつからかプロサッカー選手になりたいと夢を持ちました。

高校、大学と素晴らしい仲間に出会い、よりサッカーに真剣に取り組むようになり、夢に1歩ずつ近づくことができました。そして、大学を卒業して夢が叶いました。夢を叶えてくれたのは、浦和レッズでした」とサッカー人生を振り返りながら話した。

そして「自分を信じてパスを出してくれた仲間、自分のクロスを信じて前へ走り込んでくれた仲間、自分のミスを何度もカバーしてくれた仲間、数多くの仲間に助けられてここまで来ることができました。スタジアムには、いつも数多くのサポーターがホーム、アウェイどちらにも駆けつけて応援してくれました。

この浦和レッズに関わるすべての方たちの、大きな愛によって成り立っています。その中で一緒にプレーができたことは誇りです。この目の前にある数々のタイトルも、皆さんの愛があったからだと思います。本当に有り難うございました」と感謝の思いをかみ締め、浦和を愛する人々との別れを告げた。

そして、大学時代はユニバーシアード日本代表で共に闘い、平川選手とともに浦和に入団した坪井慶介選手から、真っ赤な花束を贈呈されると抑えてきた思いが涙となってあふれ出したのだ。

プレゼンターを務めた坪井選手は、ピッチに平川選手が立った瞬間から戦友の雄姿を目にして目頭が熱くなっていた。

「もう言葉はないですよ。残念。同期としてずっと一緒にやってきた。一緒に辞められたら最高だなと思ったりした。新人の頃に、ヒラの車に乗ってあっちこっち行ったのも思いでだ。免許がなくて、どこに行くのもヒラは嫌な顔を1つしなかった。人のためにヒラは、尽くせる人間だ。そういう彼だからこそたくさんの人が集まってくる」と平川選手と過ごした日々を思い出しながら話した。

本当に坪井選手の言うとおりである。平川選手は、どんな時でも黒子になって浦和を支えてきた。右サイドでも左サイドでもサイドのスペシャリストとして活躍した。どんな監督の下でも。

その運動量豊富な上下運動は、チームで1番のスプリント力にあった。野人の異名の岡野雅行選手の俊足よりも、ダッシュのスピードは平川選手の方が早かった。そのスプリント力を生かして、チャンスになるとサイドを駆け上がり、ピンチになると必死に戻る。ピッチの中で全身全霊を捧げて、浦和が勝つために闘ってきた。

また、同じポジションの宇賀神友弥選手が台頭してきた時でも、「競争と共存」と話してそれを実行してきた。試合出場の機会が年を重ねるごとに減っていく中で、決して腐らず、愚痴ることもなく、ベテラン選手としてあるべき姿を見せ続けた。それは、サッカーを愛し、浦和を愛していたからこそだ。

「大きな愛で成り立っています」と引退セレモニーで挨拶した平川選手だが、大きな愛で浦和を支えてくれていたのは平川選手本人だった思う。

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平川選手が浦和へと大卒ルーキーとして加入したのは、2002年のことであった。

「伸二と一緒に闘いたい」と清水商業高校の同級生であった小野伸二選手を追って浦和へとやってきたのだ。しかし、小野選手はその半年前にフェイエノールトへと移籍していたのだ。

「伸二と一緒にできると思っていたのに・・・。あいつがいない」と平川選手は当時、やるせない思いを口にしたことがあった。それでも平川選手は前を向き、小野選手がプロ1年目に付けていた背番号28番を背負いプロの道を歩み出した。

そして、2年目にはフェイエノールトで活躍する小野選手と同じ背番号14番にし、ピッチで躍動したのは言うまでもない。「自分と言えば14番だなって染みこむまで長い間付けさせてもらった」としみじみと平川選手は話した。

「伸二がいなければ、サッカー選手になれていなかった。同級生だけどかなりのリスペクトがある」と話すほど深い絆があった。

2006年に小野選手が、浦和に復帰した時に一番喜んだのは平川選手であった。小野選手と共に闘い手にしたJ1初優勝、天皇杯、ACL優勝であったが、小野選手が試合出場の機会を求めて浦和を去ってしまっても「伸二には、伸二の道がある。僕は、ここで頑張る」と自らの道を突き進んだのだ。

離れていても、幼い頃からサッカーを通じて結ばれた絆は決して切れることはない。違うチームになっても小野選手は、平川選手を訪ねて大原練習場に顔を出したり、今年の沖縄キャンプのオフを一緒に過ごして親交を深めた。

引退を小野選手に報告した時のことを「2年前ぐらいから悩んでいたことも相談した。ここまで切磋琢磨してやってきた。僕が決めたことを尊重してくれた。続けていく大変さを伸二も知っている中で、「お疲れ様」の言葉と「次の道に向けて頑張ってほしい」と温かい言葉をもらった」とうれしそうに話していた。

浦和にやってきたキッカケは小野選手だったが、月日を重ねていくうちに浦和の重鎮になっていた。伊達に浦和のエンブレムを付けて闘ってきたのとは、訳が違う。しっかりとエンブレムの重みを受け止めて、浦和を愛する人々とともに闘ってきた。

だからこそ平川選手は「まだ、夢はあります。指導者になり、このピッチに戻ってくることです」と約束したのだ。

それは、険しい道のりである。まず、監督になるのためにS級ライセンスを取得しなければならない。S級を取得しても、監督になれる保証などどこにもない。それでもサッカーを愛し、浦和を愛しているからこそ平川選手は厳しい道を選んだのだ。

17年間過ごした浦和ために、必ずここに帰ってくると。浦和を愛する人々に、何度も何度も深々と頭を下げて手を振りながら埼玉スタジアムを後にした。

平川選手の引退は、浦和が数々の栄光に包まれた時代が完全に終わったことを意味していただけでなく、新たな幕開けを意味していた。平川選手とともに闘えたことに感謝し、平川監督が浦和を率いる雄姿を浦和を愛する人々は待っている。いつの日か共に闘おうと・・・。

Q. 試合が終ったあとに気分が悪くなったりすることがあると聞きましたが

A.  試合のときは、緊張していたり、アドレナリンが出ているので試合中は気にならないことがあります。また、本当に恐いのは、小さい脳内出血があり時間の経過とともに出血が広がり、硬膜外血腫といって脳の外側の膜に血が固まってしまうことは、絶対に無いと言い切れないです。そうすると、あとから気分が悪くなったり、記憶喪失になることがあります。

川久保誠 profile
1981年慶應義塾大学医学部整形外科教室入局。93年医学博士。94年英国リーズ大学医学部大学院へ留学、修士課程修了。96年より慶應義塾大学病院膝関節・スポーツ外来担当。東京歯科大学市川病院整形外科講師を経て2004年4月より川久保整形外科クリニック院長となる。浦和レッズレディースのチームドクターも務めた。

川久保整形外科
http://www.kawakubo-clinic.jp/

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