浦和フットボール通信

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ARCHIVE:2010.8.9 森孝慈 ラストインタビュー[3](11/24)

つねに日本サッカーの中心を歩んで来た森孝慈の履歴。フットボールとともにあったその生涯をさかのぼれば、三菱からURAWAへと続く流れに身を置いた彼の源泉が見えてくる。そしてそれが、我らが浦和レッズに受け継がれるべき精神性にふかく繋がっていることが分かる。終戦直後、廃墟となった郷里・広島で過ごした少年期。そして、絶頂期にあった王国・浦和勢と覇権を賭けて対戦した高校時代……。のちに好敵手であったその地に本拠を築き、監督として、GMとして浦和レッズとともにJと世界への挑戦に赴いた氏の”ルーツ”を探るインタビュー第3話をお届けする。  コピーライター 豊田充穂
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森 孝慈(もり・たかじ)プロフィール
1943年、広島県生まれ。修道高校から早稲田大学に進み、主将として「世界の釜本」らとともに天皇杯制覇など同校の黄金時代を築く。卒業後、67年に三菱重工入社。同社サッカー部および日本代表の主力MFとしてメキシコ五輪で銅メダルを獲得した現役時代を経て指導者に転じ、81年より日本代表監督に就任。独自の観点と戦術から革新的なチーム作りを果たし、W杯メキシコ大会予選(85年)ではすでにプロ化していた韓国代表と本大会出場を賭けた伝説の名勝負を演じる。Jリーグ創成期には浦和レッズ創設のため尽力し、初代監督も務めた。横浜マリノス、アビスパ福岡でフロント経験を積んだ後、02年に塚本高志代表(当時)の要請を受けてGMとして浦和レッズに復帰。ハンス・オフト監督を擁立し、プロクラブとしてのレッズの改革に多大な貢献を果たした。常に日本サッカー界のエリートコースを歩み、浦和レッズの成長にも貴重な役どころを演じたURAWA史上の重要人物である。

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豊田:レッズ現状に関するヘビーな話題が続きましたので(笑)、ここからは森さんがURAWAにかかわるまでのルーツを探る懐かしいお話を聞かせてもらいます。これは『輝く埼玉サッカー 75年の歩み』(埼玉県サッカー協会編 1983年刊行)という冊子に掲載されている資料なのですが(複写資料を取り出して見せる)。

森:ほほう。

豊田:森さんが高校生年代であった昭和36年国体・少年の部、決勝戦の先発メンバー表です。森さんがエースだった広島修道高校の相手は、前年まで全国選手権2連覇を続けていた当時のチャンピオン・浦和市立高校だったのですね。

森:ええっ、こりゃ凄いねぇ……(熱心にメンバー表に見入る)。いやぁ、懐かしいな。

豊田:HB(ハーフバック)、いまで言うMFのポジションに森さんの名前、しっかり記載されています。

森:おお、あるな。うんうん、これは秋田でやった国体(注:1961年第16回国民体育大会・少年の部)だよ。そうそう、浦和市立とは決勝で当たってね。もう半世紀も前か。でも、(後に大学や日本リーグでも交流があったから)メンバーもほとんど覚えていますよ。(さいたま)市役所の前のうどん屋さんとか、いたんだよな……(メンバー表を指さしながら、回想する仕草)金子君、利根沢君に石井君……そうだ、古河(電工)に行った青木君もいたな。後は辻松男君。彼はたしか伊勢丹に行ったはずだが、しばらく会ってない。いまはどうしているかなぁ。……うん、本当に懐かしい。

豊田:記録によれば、雨のゲームだったとか。

森:晴れのきれいなグラウンドでやっていたら、おそらく負けていたよ(笑)。技術的には浦和が上だったねえ。あの頃から近代的なパスワークのサッカーができていたから。ウチの監督もそれを知っているから、試合を見ようと思っても私たち選手には(浦和のゲームを)見せないんだ。「お前たちは見ないで良い!ウチはウチのサッカーをやればいいんじゃあ!」なんて言って。自信を失わせたくなかったんだろうね。(注:浦和市立は地元の秋田商業などと対戦した決勝戦までの4試合を得点22失点1の快進撃で勝ち上がっていた)

豊田:その後も森さん率いる修道高校は正月の高校選手権でも釜本邦茂さん以下の山城高校(京都代表)を下して初優勝。当時としては全国完全制覇の「2冠」を達成しています。

森:ウチの持ち味はキックと守備力だった。国体のときは確か無失点で優勝したと記憶しています。その勢いや自信もあって、正月も突っ走って優勝(全国高校選手権)できたのだと思う。生徒数も少ない小さい学校だったんだけどね。選手全員集めても17人くらいしかいない小所帯。先発には1年生も2年生も混じっていました。いまじゃ(全国大会に出てくるようなチームは)部員が100人なんていう規模なんでしょ?(笑)。考えられないようなチーム情況で試合に臨む時代でしたよ。

豊田:しかし、それで2冠達成なのだから素晴らしい。高校選手権の時も直接対決はなかったですが、浦和市立が準々決勝で勝っていれば、またしても広島対浦和の頂上決戦になるところでした。静岡も含めて、完全に「サッカー御三家」が制圧していた時代ではないでしょうか。

森:そうですね。あの時代は抜きん出ていた。その三県でぜ~んぶ(タイトルを)獲ってしまっていた時代だよ。

豊田:サッカーどころだった出身地・広島のお話も伺いたい。森さんは戦前、昭和18年の生まれ。たまたま今日は原爆記念日なのですが、投下の日(昭和20年8月6日)はどこにおられたのですか?

森:親父(森芳麿氏)は広島県庁の役人でした。だから、普通に考えたら生き残れていない……。たまたま私が生まれた頃から父の勤務先が岡山県境に近い福山市の出先機関になっていて、家族も皆そこに移り住んでいた。幸いにも難を逃れたのです。

豊田:いや、凄いお話です……。ご自身はまだ2歳足らず。記憶もない年代ですよね。

森:うん。(父の勤務地が)爆心地だったらおしまいだったな。でもとにかくそんな事情だったからね。父親はすぐに視察のために広島に向かったんですが、あの被爆の直後ですからね。到着した広島の街は、それはもうひどい情況で……。救済もされない戦災孤児たちが、治療や食べ物を求めてゾロゾロとさまよっている悲惨さだったという。で、これはいかん、ということで父は救済施設を探して……。ちょうど広島の沖合いにある似島(にのしま)という島に軍関係の倉庫や施設があったので、そこを借り受けて応急の救済施設を作り始めたそうです。

豊田:(取材スタッフともどもしばし絶句)実は仕事上のキャリアでスタッフが日本の島の紹介冊子制作に携わったことがあり、森さんが似島出身で、そこが原爆被災後の重要な救済拠点でもあったことは知っていたのですが……。森さんの父上がその起源だったのですね。

森:そうそう、後に「似島学園」となるのですが、父はその施設の創立者です。後から聞いた話では1年後には国から社会福祉施設としての認可も受け、補助も受けられたそうなんですが。当初は資金うんぬんどころじゃない。取るものも取りあえず、救えるだけ子どもたちを救う……そんな情況だったらしい。まあ、当時の広島のことを考えれば頷ける話なのですが。

豊田:同じその仕事の調査段階で知ったのですが、似島は新藤兼人監督の「原爆の子」(昭和27年近代映画協会 乙羽信子主演)の舞台にもなったとか。

森:その映画は私は観ていないんだけど、その後の「ふろたき大将」(昭和30年東映 石橋蓮主演 関川秀雄監督)という映画は観た。それがまさに似島学園を舞台にした作品だったな。

豊田:それにしても……何とも凄惨な情況の中で森さん一家は似島に渡られたわけですね。

森:そう。そういう時代だったね。似島はすぐに広島市に組み入れられ、似島学園には小学校と中学校が設立された。私も当然その小学校に進むわけですが、1年生入学時の同級生はわずか4人。生徒の大半が原爆による孤児たちという情況でした。

豊田:広島のサッカー少年たちは、そういう境遇から立ち上がったわけですね。似島中学は後に強豪校となり、昭和45年の全国中学サッカー選手権では準優勝を果たしています。

森:私らの地元のライバルで、宮本輝紀さん(故人・メキシコ五輪代表)らを輩出した山陽高校の渡部英麿先生が指導されてね、大きな貢献を果たされました。

豊田:ああ、あの似島中学のサッカーには森さんは関わっていないのですか。

森:そうそう。いろんな人が誤認しているのだけど僕は似島サッカーとは関係していないです。渡部さんが作ったサッカーだね。独特のシステムと指導方針で教える方で、同じ広島でも僕らの修道のサッカーとは違うサッカーでした。

豊田:その後、森さんご自身がサッカーを始めたのは? お兄さんの健児さん(慶応大学、三菱重工サッカー部OB、元JFA専務理事)の影響も大きかったのでしょうね。

森:僕は小学4年で似島を出て広島市内の小学校に転校し、中学から修道に入学しました。兄も修道だったのだけれど、6つ違いですでに高校を卒業する時期でした。だから兄の影響は少ないんだけど、やっぱり当時の広島は小学校の頃からサッカー好きが多くてね。若山待久という友人がいて、しょっちゅう「森よ、修道に行ったら一緒にサッカーやろうや」なんて声をかけてくれていて……。でもなぜか分からないが、最初は水泳部に入ってね。県大会くらいは出たりしていました。サッカー部に入部したのは中学3年の夏を終えてからだったね。

豊田:となると、森さんのサッカーとのなれそめのキーマンは若山さん……。

森:まさに若山の影響です。彼はサッカー好きでね。全国制覇のときもキャプテンだったしユース代表にも一緒に入ったのだけど、残念にもヒザを壊してしまった。で、それを機会に医学部を目ざすことになって医師になり、後にJFAのスポーツ医学委員も務めました。私が日本代表監督だった時には、ヨーロッパ遠征などにチームドクターとして帯同してもらったりしましたよ。

豊田:なるほど。しかし森さんと同世代の人材を見わたすと、広島の人材輩出には目を見はるものがある。私は旧日本リーグ時代の少年ファンだったので良く憶えているのだけれど、広島大学附属高校のメンバーは凄いですね。後に当時全盛を誇った東洋工業サッカー部(デットマール・クラマーの提唱で始まった日本サッカーリーグで創設以来4連覇)の中心メンバーがずらりと並ぶ。後の日本代表候補に続々と名を連ねる方たちです。

森:うんうん、当時の広大附属は凄かったんだ。特に1学年上の世代ではメキシコ五輪で一緒だった小城得達さん(現広島県サッカー協会会長)始め、船本幸路さん、桑原楽之さんなどがいて完全に全国レベルでした。ようやく私らの代になって県予選で勝ち、(全国大会への)出番が来たんだけど。

豊田:広島大学附属高校は、URAWAの源流でもある埼玉師範と同じく旧師範学校の流れを受け継いでいた学校ですね。昭和34年の国体で浦和市立高校が初優勝した時の決勝の相手でもある。でも、そんな森さんと同世代のライバルたちが、やがてメキシコ五輪の栄光を掴むチームメイトになって行きます。

森:そういうことですね。小城さんも、釜本も、桑原さんも……。

豊田:次にお見せするのはこの写真です(サッカーマガジン1967年12月号を取り出す)。この場面、ご記憶ですか?

森:いや、これも懐かしい写真だなあ。国立競技場だね、これは……。分かったよ、これはメキシコの予選(メキシコ五輪予選、1967年10月)の日韓戦だ!(グラビア頁に見入る)

豊田:シュートのカットに入っているのが森さんで、キックしているのが当時の韓国のエースストライカー・金基福。釜本邦茂選手が決めた日本の3点目の、わずか3分後のシーンです。

森:あの時ねぇ、飛び込むのが一瞬遅れて……ボレーで打たれた(しばらく無言で写真を見つめたまま)。いやぁ、忘れられないよ(苦笑)。ガマ(釜本)が取ってくれたリードを守り切れんかった。あの時も雨でグランドはどろどろ。それでもお客さんが凄い数で入っていてね。

豊田:現地スタンドにいたのですが、激しい降雨のナイターというのに通路にまで人があふれる状態。当時の国立はまだベンチ形式のシートで、子どもの観客は3人分スペースに4人で詰め込まれていました。管轄警察とメディアでの動員発表は5万5千人でしたが、東京オリンピック以来の「満員の国立競技場」であったことは間違いありません。

森:韓国に追いかけられてね、ぎりぎり(の出場権獲得)だった。フィリピン戦で15点取っておいて良かった。あの時だな、釜本がダブルハットトリックをやったのは……。おおっ、金正男(元蔚山現代監督・現Kリーグ副会長)も写っている!

豊田:韓国代表の守りの中心として出場していました。18年後に森さん率いる日本代表と、ワールドカップ出場を賭けて同じ国立競技場で戦った元韓国代表監督ですね(ワールドカップ・メキシコ大会予選、1985年10月)。ソウルと蔚山で2度ほどインタビューさせていただいているのですが、必ず「モリサンはどうしている?」の台詞が出ます(笑)。

森:あはは、お互いに行き来した時には飲みに行ったりする仲なんですよ。それこそ彼はどうしているのかな、監督業はもう辞めたんでしょ?

豊田:お会いしたときは蔚山現代の監督でしたが、後に辞めてKリーグの幹部になられたと聞いています。

森:いやはや、この写真も懐かしいね。良いもん見せてもらった。

豊田:良かったらお持ち帰りください。これ、複写ですから(資料を手渡す)。ところで当時の日本代表を率いていたその人が長沼健さん(故人・元JFA会長)でしたね。森さんとともに日の丸をつけたイレブンの中には釜本さんのほか、お話に出てきた杉山隆一さん、小城得達さん、宮本輝紀さん、そして元浦和レッズ監督の横山謙三さんらが名を連ねていました。

森:そう。GKは謙三さんだったね。3-3のロスタイムに韓国のロングシュートが飛んで……。危ないっと思って振り返ったら、謙三さんもすっごいダイビングしているんだけど、突き抜けたボールがバーに跳ね返った。ヒヤッとしたな。入っていたら(五輪出場は)韓国だったからね。よーく憶えています。

(注:67年10月7日に行なわれたこの日韓戦は3-3のドロー。リーグ戦形式の予選を終えて日韓は5勝1分で並んだが、得失点差で優った日本が本大会出場権を獲得した)

≪続く≫

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