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浦和タウンミーティング第3回Special issue 森孝慈さんを偲び。浦和レッズの原点を知る(2)

「レッズの父」と称された森孝慈さんが亡くなってから1年が経つ。多くの読者から反響を頂いた2010年8月のロングインタビュー(https://www.urawa-football.com/post/4397/)を担当した本誌は、遺された言葉を広くホームタウンに伝えるために「浦和タウンミーティング」第3回を故人を偲ぶ追悼イベントとして開催した。浦和レッズというクラブがいかに誕生したか。どんな人々の熱意によって支えられてきたか。そこには森孝慈さんのどんな熱意が注がれていたのか……。故人と深い関わりを持つパネリストたちによって行なわれたミーティング記録をお届けする。 浦和フットボール通信編集部

2012年7月17日(火)URAWA POINT
ゲスト:落合弘(浦和レッズハートフルクラブキャプテン) 河野正(サッカージャーナリスト)
司会: 椛沢佑一(浦和フットボール通信編集長)、豊田充穂

椛沢:第2部では、浦和レッズ誕生に至るまでの森さんの功績についてお話を進めて行きたいと思います。1990年に浦和青年会議所が中心となって「浦和プロサッカー球団をつくろう会」が発足されました。当時の浦和はJ誘致に関してはホンダ技研が本命だったのですが、ホンダが浦和の誘致を断わったために川淵三郎氏の仲介で三菱と浦和が出会い、その後、浦和レッドダイヤモンズ創設、Jリーグ入りが決定……という流れになりました。河野さん、これはレッズサポーターにとってはおなじみの歴史エピソードですよね。

河野:その時のホンダの代表は川本さんという方で、サッカー部をプロにするのであれば当時本拠地であった浜松を出てはいけないという断を下されました。つまり、ホンダが浦和に来る計画が頓挫をしてしまったわけです。当時のサッカー部部長は鹿島の初代監督を務められた宮本征勝さんだったのですが、その宮本さん以下の3人くらいの幹部が浦和に来られ、「作ろう会」のメンバーたちに申し訳ないけどダメになったという話を伝えられました。当時の畑和埼玉県知事もホンダが浦和に来るのであれば、自治体が全力でバックアップをすると宣言しており、当初の構想では現・さいたまスーパーアリーナがある大宮操車場跡地をスタジアムにする予定だったんです。当時は知事も相当に乗り気だったのですけれどね。
椛沢:三菱もホームタウンを探していたんですね。

落合:私は直接関わったわけではないですけど、三菱の場合はそれこそ全国にあたった候補地選びが上手くいかずにいました。浦和と交渉する前は江戸川、府中など東京をあたっていたと思います。そんな折に浦和とホンダの計画が頓挫したということで、浦和が筆頭の候補地になった、ということのようです。

椛沢:そこで川淵三郎さんが、仲介に入って三菱と浦和が話をするようになったということですね。

河野:「作ろう会」の中心メンバーが川淵さんに相談に赴きまして。川淵さんとレッズの初代社長の清水泰男さんは同級生だったとのことで、まずは川淵さんから清水さんに話が行き、清水さんが話を取り持って「作ろう会」のメンバー二人と森さんの会談が実現した。清水さんは当時の三菱サッカー部部長、森さんが副部長、総監督でしたから話はスムーズだったと思います。4人で西が丘の隣のすかいらーくで話し合いをしたのが初めてで、その会合を起点として浦和にレッズがやって来たということですね。

椛沢:レッズの誕生はある意味、奇跡的な出会いだったのですね。

河野:三菱にとっても「作ろう会」にとっても渡りに船だったと思います。

椛沢:落合さんにとっては地元浦和に三菱が来るということ。運命的な出会いを感じられたひとりだったのでは?

落合:三菱サッカー部の中には浦和出身者が多かった。横山さんを始め、私もそうですし、名取、広瀬、関口とたくさん地元出身者がいましたからね。我々は詳しい話は聞かされませんでしたけど、そうか、いい話じゃないかと。そう感じましたね。

椛沢:豊田さんも古くから三菱サッカーを観てきたひとりですね。

豊田:とにかく旧日本リーグの首都圏チームの中で一番カッコ良かったのが三菱重工。それぞれチームカラーがあったのですが、三菱、日立、古河の「丸の内御三家」の中でも三菱は二宮寛監督(当時)がボルシアMGの監督だったへネス・バイスバイラーと交流を持っていました。バイスバイラーといえば、そもそもヨハン・クライフをFCバルセロナに呼んだ張本人。スケール感が違っていましたよ。ボルシアを率いて日本に来た時も国立競技場で凄いゲームを展開しました。バイスバイラーがバルセロナに行き、クライフを呼び寄せ、現在の“世界最高クラブ”バルサの原型設計図を引いた。その人物が三菱重工監督と深い関わりを持っていた……という流れです。

落合:そうそう、とにかくスマートでかっこよかったんですよ、三菱は。

豊田:南米路線のヤンマーに対してヨーロッパ路線でしたよね。私たち支持者も、南米よりもヨーロッパだろ?という人は例外なく三菱をサポートしていた。今のレッズサポーターにもそういう傾向はあるんじゃないかと思います。

椛沢:そんな浦和レッズの初代監督に森さんが就任した際、一緒にチームを支えた人物が他ならぬヘッドコーチだった落合さんです。

落合:一応ね、横にいたんです(笑)。当時40代だったでしょうか。森さんは良い人だったよね~。選手の頃からお世話になり、付き合いがあり、彼のことはよく分かっているつもりでした。(選手時代から)同じ目で見ていますから、監督になった時の姿も思っていた通りの監督でした。いろいろな人に配慮をして監督業をやっておられた。人が良すぎたので監督としてはマイナスだった部分もあったのでは?と思う。その部分においては森さん自身も悩んでいた面があるかもしれません。

椛沢:河野さんは当時のお話として森さんのキャラクターを語るエピソードを持っておられるでしょう。

河野:森さんのパーソナリティを語るには1時間2時間では足りないんです(笑)。とにかく懐が深いというのが一番、的確な言葉ですね。森さんの悪口を聞いた人は一人もいないと思う。というのも森さんが人の悪口を言ったことを聞いたことがない。飲みに行くと必ず言葉にする「よう庶民!」という口癖があったんですけど、そのまさに庶民が森さんで、来る者拒まず、去る者追わずで、飲みに行っても帰りたい奴は帰ればいいんじゃ、行きたい奴だけで2次会にいこうという雰囲気を作っておられましたね。

椛沢:森さんは浦和に来た時もVIP待遇をされるのが嫌いで、普通のお店に通ったそうですね。

河野:森さんは旧浦和市役所の近くのマンションに単身で引っ越してきた。浦和に来る時はいつも埼玉県のサッカー協会とか自治体とかの折衝があったので、東京のご自宅に帰ってまた浦和に来るのはもったいないという考えから一人暮らしをされていましたね。根っからの庶民派なんです。森さんが良く通っていたお店は西口高架下の三楽苑という焼肉屋さん。浦和東口にある食堂苑という店でもおなじみさんでした。三楽苑はたまたま入ったお店だったのですが、その際に「ウメミノがないの?」と聞いてそれを作ってくれと勝手にメニューにしちゃった(笑)。今でもあるんですよ、そのメニュー。あとは「かっぱ」というおでん屋さんだったり、ちゃんこ鍋屋さんだったり。桜草通りにあるサパークラブではしょっちゅう宇多田ヒカルを歌っていました(笑)

椛沢:Jリーグ初年度は最下位に終わってしまったわけですが、そのきっかけとなった試合はJ開幕戦だったとか。

落合:なんでこんなドツボにはまったんだろうなと思うと、あのJリーグ開幕の万博でやったガンバ戦に行き着くわけです。開幕前年は攻撃的なサッカーで好調だったんですけどね。しかもあのゲーム、前半は良かったんです。なのにハーフタイムに停電しちゃってね。あれがすべてですよ。あれですべてが狂ってしまった気がする。試合が再開されてからガンバのCK時に柱谷から堀に交代。その間隙をついて和田に決められての完封負けです。そこからはドツボでしたね。あれが違う結果だったらといつも思う。1試合1試合必死になって勝ちに繋げていかないとドコで転ぶかわからないサイクルに陥ってしまった。それが森さんの船出に起こってしまったということです。

椛沢:当時はJリーグバブルの頂点。突如として大観衆のお客さんの前でのプレーになったプレッシャーもあったのでは?

落合:やっている人間はそういうことはないと思う。でも、勝ちたいと思うほどに勝てなくなった。勝てなくなると、そこから脱出するのはなかなか難しいんです。加えて最下位、最下位で来たというのに、浦和のサポーターの皆さんがめちゃくちゃ応援をしてくれた。あれには本当に涙が出ましたね。浦和レッズの人間というよりも浦和の人間として浦和に生まれてよかったと思いました。浦和の人はサッカーが好きだ。だから、あそこまで応援をしてくれるのだ、ってね。あそこまで負けたら普通は「何やってんだ」ということになりますよ。なのに必死に応援をして支えてくれる。浦和の人たちはサッカーに対してプライドがあったのだと思います。浦和のサッカーはそんなもんじゃないぞ、もっと頑張れと。今でも浦和のサポーターはそういう気持ちで応援をしてくれていると思います。本当に素晴らしいホームタウンですよ、URAWAは。

椛沢:当時の森さんの言葉で思い出すのは、「3年分は負けた」という言葉です。

落合:森さんがすごいのは、負けても、負けても、サポーターの皆さんの前に進んで出て行ったこと。私は「行けないだろうな」と思っていたのだけど、森さんは堂々と手を振っているわけです。どういう神経になっているんだと思ったこともある(笑)。でもそういう所こそ、レッズサポーターの皆さんが受け入れてくれた部分なんじゃないかといまになって思います。森さんは“でっかい人”だったのだと思いますね。

椛沢:当時の浦和の街では、負けた後にしょっちゅう森さんが「負けちゃってごめん。次は頑張るから応援をしてくれ」という話をしていた。それで街の人も応援を続けようという話になった、という逸話を耳にします。

落合:普通に考えれば、そういう行動ってなかなか出来ないですよね。森さんは見た目もカッコイイでしょ。イメージが違うわけです。私は森さんがお酒を飲んだ席はあまり知らないんですけど、ガラっと変わりますよね。話も酷い話になる(笑)。そういう所が裏表がなく、魅力だったのだろうなと思います。

椛沢:河野さんもJリーグ初年度から森さんを取材をされています。当時を振り返ってのエピソードをお願いします。

河野:92年のナビスコと天皇杯の成績が良くて、スタッフも選手もサポーターもホームタウンも期待が膨らんだ。なのにフタを開けたら93年すなわちリーグ開幕年度は全くダメでした。その時はJの約束事としてキックオフ1時間前の取材が可能だったんです。選手たちはさすがに出てこなかったけど、森さんは駒場に必ず出てきて話をしてくれました。ほぼ毎回「仕事が終わったら酒をやりましょう」と言っていたんですけど、「よし、いいぞ。ただし勝ったらな」という但し書きがあった。結局93年は一度として試合後に飲めなかったね(笑)。確かアウェイの名古屋で0-3で負けた時です。どうしても森さんと飲みたくて滞在しているホテルに電話をしたら「サポーターがいっぱいいるから今日はやめておく」と言われたこともありました(笑)。その試合前のやり取りが面白くてね。森さんの記者会見は非常に味があって、人間味があって面白かった。埼玉新聞で、最終戦の翌日に監督語録をつけたのは森さんだけでしたね。森さんは記者のくだらない質問でもひとつひとつ丁寧に答えていて、そういう所でも印象は深い。先ほどの「3年分負けた」というのも名言中の名言でしょう。93年のサントリーシリーズのフリューゲルス戦に負けた時に言った言葉なんですけど、これも現役時代も勝つことに慣れていた人だからこそ。年間3勝しか出来なかった監督初年度はそういう言葉にしかならなかったんだと思いますね。

椛沢:93年に印象深かった試合は?

河野:鹿島スタジアムで前半3分に福田が先制点を入れて、その後にすぐに黒崎に入れられた試合(場内笑)。最終戦のガンバ戦とか、三重で始めて名古屋と試合をして……うん、ジョルジーニョという左利きの凄い選手がいたな。その試合で0-6で負けたこととか、風間八宏にハットトリックを決められたサンフレッチェ戦とか。負けた試合ばかり覚えていますね(苦笑)。それでも負けても、負けてもチームもクラブもメディアもサポーターも落ち込みませんでした。試合も多くて待っている時間もなかったということもあったけど。常に次だ!次だ!という意識が強くて、いつの間にかURAWAの街がひとつになってレッズを応援したという印象です。

豊田;負けても、負けても戦う雰囲気ができるという話。それを森さんにインタビューした際に伺ったら、「負けても自分たちを信頼してくれる空気があった」との応えでした。河野さんも「当時は信頼していればこその批判記事が書けていたし、一緒にクラブ創成期を作っているという雰囲気が確かにあった」とコメントしていましたよね。大住良之さん(サッカージャーナリスト)の言葉を借りれば「こういうことは“昔はよかった”という話じゃない。そもそもホームタウンとクラブのあるべき姿なので、森さんの話をする時はURAWAのファンの皆さんには特に強調して紹介をしてくれ」と申し渡されています(笑)。93年当時には、あるべきホームタウンとクラブの姿があったということでしょう。その原点に常に立ち戻りながらやっていかなければならないということではないでしょうか。

椛沢:いま豊田さんがあげた雰囲気などは、森さんのキャラクターが大きく影響していたのではないですか?

落合:それはそう思いますね。あれだけ負けていたら、普通は監督も不要な発言をしちゃったりすると思うのだけど、森さんは誠実でした。ちゃんと話をしてくれるからこそ、URAWAのサポーターの皆さんももう一回皆でがんばろうよという空気を作れたんだと思います。

椛沢:森さんは95年から横浜マリノスのスタッフになられてタイトル獲得。99年からはアビスパ福岡のGMというキャリアなので、レッズがJ2陥落の際にライバルチーム幹部だったというわけです。私は今でも覚えていますけどアビスパが試合を終え、レッズの結果次第でアビスパが落ちるかレッズが落ちるかという状況になりました。レッズが最終的に降格が決まったことを知って、複雑な表情をされていたのが印象的でした。そして2001年には浦和レッズのGMに就任。その時のエピソードを河野さんはお持ちということですので、お聞かせください。

河野:森さんは2001年12月1日にレッズGMに就任されたのですが、当時の塚本社長に私が浦和のバーに呼ばれましてね。そこに森さんもいらっしゃったんです。その場で塚本さんが「森ちんがGMに、強化部長は中村修三がやることになった」と言われた。そりゃあ素直に嬉しかったですよ。森さんの監督時代は怪我人も多かった。きっちりした準備をしたつもりだったけど、開幕までにはとても間に合わなかったというのが実情です。GMになる今回こそ、森さんの広い人脈を使ってチーム作りに尽力されるのだと思うと心から嬉しく期待が膨らんだ思い出がある。実際にGMになられて以降は、外国人選手はほとんどを森さんが呼んで来る情況になりましたから。

椛沢:塚本社長と3年計画を立ててレッズの黄金期の礎を作ったわけですが、その森さんのGMとしての手腕はどのようなものだったのでしょうか。

河野:代表監督時代の教え子が監督や選手になっていたり、アルパイが韓国でプレーをしていたのを知って韓国ルートで獲得したりね。ロブソン・ポンテのケースもそうでしたけが、なんでこんなに人脈があるんだろうというものを森さんは持っていた。それでいて俺が俺がという偉ぶることもないのです。クラブの中で特に協調というものを重んじた方と思います。強化部長を立てつつGMが引っ張る。そういう手法の印象が強かったです。

椛沢:そして2003年にはナビスコカップで初優勝を果たします。

河野:これは森さんがハンス・オフトを連れてきた成果と思っています。あの監督選びの際にはブラジル人監督候補との二者択一で迷っていたわけですけど、オフトは日本での指導歴も長いし、日本人のメンタリティーも分かっているのでセレクトした。ではコーチは誰かと訊いたらふたつ返事でヤンセンの名前を出し、すぐにスペインに飛んで12月中に仮契約を済ませたわけです。

椛沢:もう一人のブラジル人監督はカルロス・ペレイラ(94年W杯優勝監督)だったとインタビュー時に森さんから証言を頂きました。落合さんもナビスコ初優勝の時は感慨深いものがあったのではないでしょうか。

落合:それは嬉しかったですよ。森さんが12月にGMに決まった時に東武ホテルに集まって監督誰にしようかという話になってね。森さんの人脈はすごいですから、携帯に全部連絡先が入っている。オフトのところに直接電話して「今なにをやってんだ」と聞いて、それはスムーズに話をつけましたから。すごいなあと思いましたよ。GMという意味ではうってつけだよね。レッズとしては最高の監督と思っていたから、ナビスコでの優勝はそれはもう最高でした。

椛沢:皆さんにぜひ知って欲しい、知られざるエピソードもあるということでしたので、ここでぜひお聞かせください。

河野:私の浦和の友人に家族でレッズを応援している方がいるんです。この方があるファーストフードの幹部をやっているのですが、店長・幹部クラスが出席する研修会がパインズホテルであるので、スポーツ関係の人を呼んで話をしてもらいたいという要請があったのですね。そこで森さんにお願いしたいという話が出たので、私から森さんにご連絡をしまして。私と森さんと幹部の方三人で中村家といううなぎ屋さんで打ち合わせをすることになったのです。ところが打ち合せ前に森さんから電話が掛かって来た。「実は今日病院で喉頭がんと宣告されてしまった」という連絡。私はビックリをしてキャンセルも止むを得ないのではと申し上げたのですが、森さんは約束だから行くとおっしゃいましてね。講演自体は声がでないからエッチに頼んであるからと……。エッチとは他ならぬ落合さんのことなんです。その電話の翌日には埼スタに赴き、落合さんに直接講演の説明をされたそうです。

椛沢:なるほど。

河野:そういうことを電話で済ませない方なんですね。それまで20年近く森さんとお付き合いをさせて頂いて、森さんの人間としての素晴らしさを感じていたんですけど、あの時ほど森さんの素晴らしさを体感したことはなかった。その翌年の11月にはボジョレーヌーボー解禁日に森さんの快気祝いをパインズホテルで開催しました。その時も森さんはエスプリとユーモアにあふれていましてね。声があまり出なかったので、サポーターの誰かに借りてトラメガ使って挨拶された。とにかく、とことん人間味にあふれた方でした。

落合:私は20歳で代表に入り、66年にイングランドのワールドカップ視察に加えていただきました。一番若くてね。雑用をやらされてドクターバック係をしていたのですが、あるゲームの時に薬をひとつ入れ忘れて岡野俊一郎さん(当時日本代表コーチ)にめちゃくちゃ怒られたこともありました。試合にもなかなか出してもらえなくて、辛い時期だったわけです。そんな時に私と森さんがふとベンチで二人になった時がありましてね。「監督もお前を出してやればいいのにな」なんて、ボソッと言ってくた。それはめちゃくちゃ嬉しかったですよ。そんなこと森さんは考えてくれていたんだなあと思いました。話をするタイミングがうまい。嫌味もない。私が代表でなかなかうまくいかない時に相談にのってくれた先輩……そういう延長線上のお付き合いをずっと続けさせていただいた。そんな印象です。

椛沢:ここからは参加者の皆さんから質問を受け付けたいと思います。

参加者:ケンカなどを森さんとしたことはないんでしょうか。例えばチーム戦術で食い違いがあったとか。

落合:全くないです。本当にないんですよ。私はけっこうケンカする方なんですけど、森さんとは出来ないよね。意見を食い違うことはほとんど無かった。森さんも私も考えてサッカーをプレーするタイプでしたから。そういう意味ではサッカーでも同じような捉え方をしていた事例はたくさんあります。

豊田:落合さんと森さんが日本代表に選ばれたのは、ともに三菱に入部された頃とタイミングが重なっています。ちょうど駒場でプレシーズンマッチが開催されたことがあり、私は小学生くらいだったんですけど、三菱が駒場に来るというので観戦に行った記憶がある。その時すでに落合さんも森さんも代表メンバーだったわけですが、杉山さんと二宮さんがパス出しのタイミングが悪いとか、スタンドに聞こえる程の大きな声で指示を出していて……。なんとも厳しい雰囲気を作っているチームだなという印象を子ども心に持ったことを鮮明に覚えているのですが。

落合:二宮監督にはね、森さんも私もそれはもうすごく鍛えられました。30メートルくらい離れてパス交換をした時にうまい所にボールが行かないと取ってくれないとか。どっちかというと私たちのほうが正確でしたけど、それは言えなかった(笑)。

椛沢:今日が森さんの命日ということで、お二人から今、浦和の街、サポーター、森さんに何を伝えたいかをお聞かせ頂けますでしょうか。

河野:メキシコワールドカップの予選で、日本と韓国と北朝鮮と香港で一枠を争っていた時のエピソードです。ホームの国立で北朝鮮とやって1-0で勝利。アウェイは0-0で引き分けたんですけど、そのアウェイでは松木安太郎さんが警告累積で出場停止でした。普通、出場停止の選手を帯同させることはないのですが、森さんは平壌に松木さんを連れて行ったんですね。その後に松木さんにいきさつを聞いたんですけど、あの時は本当に驚いたと、出場停止なのにお前もファミリーの一人だから来いと言われた。その時に感謝感激をして、チームはひとつになって戦わないといけないということを体感したそうなんですよ。松木さんが指導者になった後もそのエピソードを交えて、チームとクラブ、サポーターもひとつになって戦わなくてはいけないと教えたそうです。何十年も前の話になろうとも、森さんのやった功績が浦和の街、クラブ、チーム、市民、サポーターに語り継がれれば、レッズが強くなるという成果のみならず、浦和の街に歴史の香りが漂うのでは? フットボール文化が成熟する街になるのでは? そう思います。森さんが生きていたら、そういうことの大切さを訴えるのではないでしょうか。これをクラブスタッフ、チーム、選手、サポーターの皆さんに理解いただきたいと思いますね。

落合:(客席を見わたして)そうそう、言いたいことたくさんありますもんね。森さんの教え子ならたくさんいるわけですけど、森さんが代表監督の時のキャプテンは加藤久。彼は私が代表でキャプテンをした後を継いでくれた主将ですが、いま岩手にいましてね。東日本大震災で大変な思いをしている地域を回っているんです。我々がハートフルクラブを開催する際に会うことができましてね。我々は子どもたちにサッカーをさせる時に応援もさせるんです。その岩手でのハートフルではオレンジ色のビブスを着させ、そのチーム名はカラシとかキムチ。緑色のビブスチームはワサビだとかね(笑)。ワサビとキムチ、どっちが辛い対決だ!なんて言って盛り上げるのですけど、加藤久ちゃんがいる時に私はワサビチームいこうぜ。ワサビ!ワサビ!と盛り上げようと子供たちに言いました。どちらかというと寡黙なキャラクターの加藤久ちゃんは、そこまで出来ないだろうなと思っていたんですけど、彼はやってくれましたよ。あの久ちゃんがね。カラシ!カラシ!と盛り上げてくれるのを見たら、あんな凄い選手があそこまでやってくれたというのは、森さんの流れをしっかり汲んでいるんじゃないかと思ってね。すごく嬉しかったです。森さんにもあの久ちゃんが、こんなことやってくれてるよって報告したかった。浦和のサポーターの皆さんにも伝えたいエピソードです。こういうことはすごく大事だよ。URAWAはいつもサッカーで盛り上げなきゃいけません。それにはトップチームの活躍が絶対に必要です。それに加えて子どもたちがやっぱり大事なんです。子どもたちに頑張れる気持ち、思いやりを持てる気持ち、色々なことを考えられる子どもたちが私たちのホームタウンから育つということが、これからのURAWAをより進化したサッカーの街にできると思うんです。森さん、みんな頑張っているよって、報告したいじゃないですか。森さんはきっと「ほんまけぇ~?」なんて驚くと思います。

椛沢:今回は、森さんのお話をしながら、森スピリッツを感じながら、レッズの原点を知る会でした。みなさんも色々なことを感じられたのではと思います。この原点を忘れずに進めば、浦和レッズは魅力的なクラブになって行くと私も感じました。

豊田:こうやって落合さんとお話をしていると2010年に森さんとお会いした折のことを鮮明に思い出します。インタビューの最後に森さんは「Jリーグが始まった頃のスピリット。それをURAWAもレッズも決して忘れちゃいけない。それを話す機会はずっと大切にして行きたい」と言ってくださいました。ですが、残念ながら森さんは亡くなってしまった。その志のバトンはぜひ落合さんに受けていただきたいのです。これからもこのような機会を頂き、お話をして頂ければと思います。

落合:分かりました。了解です。

椛沢:出席の皆さん、ご来場の皆さん、本日はありがとうございました。

<了>

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