浦和フットボール通信

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『赤き血のイレブン』の浦和南高校で開催 第12回浦和4校OB会

第12回目を迎えた「浦和4校」OB会が、今年創立50周年を迎えた浦和南高校グラウンドで行われた。全国制覇の偉業を果たした浦和4校のOBなどが集結して、現役さながらにボールを追いかけた。

「埼玉を制するものは全国を制す」の言葉を残す通り、浦和高校、浦和西高校、市立浦和高校、浦和南高校の浦和4校は、国体8回、総体2回、選手権11回という同一市内の高校の優勝回数では全国に右に出る所がない偉業を果たし、サッカーの街浦和の名を全国に知らしめた。1969年に史上初の高校三冠を達成した浦和南高校は、漫画「赤き血のイレブン」のモデルとなった高校であることは有名。レッズのスタンドでもその偉業に敬意を評し、応援歌としてその名が叫ばれている。三冠の立役者となった当時のエース、永井良和さんは先日、日本サッカー殿堂入りした。これにより浦和4校すべてのOBが日本サッカー殿堂入りを果たした。これもまた浦和のサッカー文化を象徴する出来事だった。OB会は50歳以上が参加するAチームは浦和市立が優勝。35歳から49歳までのBチームは、南高校が優勝した。

今井敏明さん(浦和西高校OB)

UF:浦和4校OB戦に参加してみていかがだったでしょうか?

今井:浦和4校OB会の参加はご無沙汰ですね。私が西高でコーチをしていた頃のメンバーもいたり、南高の関口君とか松本君は同期なので懐かしいメンバーで、この南高のグラウンドにも選抜の合宿とかで来ていたりしていましたから、懐かしい時間でした。

今日は無得点なので、悔しい。若い人の方が動けているので、それも悔しい(笑)。現役時代の気持ちは変わらないですよ。浦和4校は最近元気がないですね。特にうちが……(苦笑)。今年は、西高の指導もしていたのですが、時間が少ない中での指導でしたのでもう一つ上まで行きたかったのですが、難しい部分もありました。

プロフィール 今井敏明

1954年埼玉県生まれ。県立浦和西高校で活躍した後、早稲田大学、富士通(現・川崎フロンターレ)に進み、活躍。現役引退後は、東京ガス(現・FC東京)を始めとしたプロチームや高校、大学において指導にあたり、2005年から07年までチャイニーズタイペイ代表の監督、2010年にはU-20、U-17スーダン代表監督としても指揮を執った。

永井良和さん(浦和南高校OB)



UF:久しぶりの浦和南高校グラウンドでのプレーだったと思いますが、いかがでしたか?

永井:このグラウンドでプレーしていたのは44年前ですね。グラウンドの形は違ったのですが、同じ場所です。そして、この校舎は50年です。ここには北浦和から自転車で通ってね。帰りに中山道の坂が苦しかった(苦笑)。ここに来ると苦しい練習を思い出しますね。よくあの練習に耐えたなと。あれだけ練習すれば日本一になるよという実感がありますね。

UF:そしてこの南高での活躍も含まれてのことだと思いますが、先日、日本サッカー殿堂入りも果たされました。おめでとうございます。

永井:ありがとうございます。当然、南高で三冠を獲ったことなども加味されての日本サッカー殿堂入りだと思います。

UF:南高では初めての殿堂入りということになりますね?

永井:南高ではサッカー殿堂入りは始めてですね。昨年、浦和高校から浅見先生、浦和市立から落合さん、浦和西から鈴木さんが殿堂入りをされて、お祝いをした時に4校対抗だけども浦和南はいないという話がありました(笑)。この殿堂入りは60歳にならないと資格がないのですが、私は6期生で60歳になったということで、たまたま私が頂くことになりました。

UF:殿堂入りをするまでの活躍を果たせた背景にあったものはなんでしょうか?

永井:殿堂入りは、浦和でサッカーをやっていたから成し得たことだと思いますね。私の受賞はJSL最多出場試合とAマッチ50試合以上出場とか最優秀選手受賞ということが評価されていると思いますが、それは長くやらないともらえないものなので、途中で辞めてしまうとこのような賞はもらえなかったと思います。その意味では高校を出て、すぐに日本代表になって、浦和南出身で、途中で消えてしまうというのは、他に浦和出身者でも長く代表で活躍された方もいますから、許されないという感じがありました。そのプレッシャーもあって頑張れたという思いがあります。浦和の名を背負っているという感覚はありましたね。あとは古河電工に入ったことですね。サッカー界では名門ですし、若くして期待されている人間が途中で消えてしまってはいけないというプレッシャーもありましたね。もう一つは、奥寺さんの存在も大きかったですね。奥寺さんは一つ先輩で一緒に古河に入って日本代表でもやってライバルという感じでやってきて、奥寺さんがドイツに行き、自分自身でも悔しい思いもしているし、奥寺さんもドイツで9年間やっていて、私もここで終わるわけにはいかないと気持ちがあった。その3つの要素があったと思いますね。それがなければ途中で挫折もあったし、仕事とサッカーを両立しないといけない時代でしたから、ここまで長くプレー出来ていなかったと思います。浦和であり、古河であり、良い先輩や環境があったということですね。

プロフィール 永井良和

1952年浦和市(現さいたま市)生まれ。浦和南高校時代には快速フォワードとして活躍し、昭和44年には史上初の高校サッカーの3大タイトル(全国高等学校サッカー選手権大会・全国高等学校総合体育大会・国民体育大会)を制覇、三冠を達成。この活躍が漫画『赤き血のイレブン』のモデルとなった。高校卒業後、古河電工に入社。1977年度のJSL、天皇杯の二冠や、1985-86年度JSL優勝などに貢献した。また1976年に日本年間最優秀選手賞を受賞。歴代1位の出場272試合、63得点(歴代9位)、77アシスト(歴代2位)という大記録を残した。日本代表でもAマッチ69試合出場9得点。現役引退後は、日本ユース(U-18)代表監督を経て、東日本古河サッカークラブ(ジェフユナイテッド市原)(1992~93)、福島FC(1996)、アルビレックス新潟(1998~2000)、横浜FC(2001)、浦和レッドダイヤモンズ・レディース(2006~07)の監督を務めた。現在は、2008年4月より、千葉市フクダ電子スクエア、サッカースクールのスクールマスターとして子供たちを指導している。

エキシビジョンマッチでは、浦和一女チームと対戦。女子のレベルの高さにOBも驚きの声を上げていた。

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