浦和フットボール通信

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Devotion to URAWA – [サッカーがある街の幸せ]土田尚史GKコーチ

浦和レッズに関わる様々な人を紹介しながら、レッズとホームタウンURAWAとの関わりや活動、理念について紹介するコーナー。
今回は、J元年から浦和レッズのゴールを守り、現在はトップチームのGKコーチとして活躍する土田尚史さんの登場。

Interview&text by 河合貴子

 

 

「サッカーの街」と当然のように呼ばれる浦和。浦和の街では自然にサッカーの話で花が咲く。
それは、1908年、埼玉師範学校に蹴球部が創設され、サッカーに対する熱い思いが人々の間に受け継がれ、ひとつの文化として着実に根付いた事も一つの要因になっていると思う。
そして1992年、そんな「サッカーの街」浦和に「三菱自動車フットボールクラブ」がやって来て、我が街のサッカークラブとして「浦和レッズ」の呼称で人々に愛された。
しかし、浦和レッズは1993年のJリーグ開幕当初から結果が出ずに苦悩の時代が続いてしまった。サポーターからは「いくら三菱が弱いって言われても良い が、浦和が弱いって言われるのは我慢できない」と言う言葉が出るくらい、浦和は誇り高き「サッカーの街」なのだ。

その誇り高き「サッカーの街」浦和に選手時代から、自然に溶け込んで居たのは、土田尚史コーチだった。
選手時代から浦和の街に住み、スーパーのレジ袋を片手に歩いていたり、子供の運動会では、他の父兄と一緒になって真剣に子供たちを応援したり、犬の散歩をしたり、土田コーチにはこの街に住んでいると言う生活感があった。
実際に浦和の街中でばったりと土田コーチに出会った事は数知れず、私の行きつけの店で一緒になった事もあった。
「えっ!たか姉もこの店に来るんだぁ~この店は美味いもんね!」と屈託の無い笑顔で話しかけてくれて、世間話しから気がつけばサッカーの話に花が咲いている。それは、私に限った出来事ではない。土田コーチは誰に対して も屈託の無い笑顔で話しかけ、挨拶から始まりそしてレッズの話し、サッカーの話になって行く。たまに、お互いのサッカー感がぶつかり合って激論になってし まう事もあるが、お互いサッカーに真剣に向き合っているからこそ、土田コーチはその激論を交わす雰囲気を楽しんでいるようにも思える。

そんな土田コーチは「この街は特別。そんな浦和を今は、俺の街だと言えるようになった。こんなに自分の街を愛せる様になったのも、浦和のお陰だし、住んでいる人のお陰だと思う」と誇らしげに話す。
そして、土田コーチは「浦和は俺自身」と言い切る。
そこには、岡山出身で言わば、よそ者の土田コーチを「浦和レッズ」と言う地元のサッカークラブを通して街の人たちが受け入れてくれた訳だが、ただ単にそれだけでは無いと思う。
土田コーチ自身も街の人々と接する事で、誇り高き「サッカーの街」浦和を感じとっただろうし、街の人たちは、飾り気の無く、真っ直ぐで、人に対して思いやりがあり、情が深く、浦和を愛している土田コーチの人柄に触れたからこそだと思う。だから、浦和を愛しているからこそ、浦和から愛されている土田コーチがいて、「浦和は俺の街、俺自身」と言えるのだ。

土田コーチは「浦和レッズはみんなから愛されるクラブ。だからクラブは、浦和レッズを愛すると共に、浦和を愛さないといけない。それが、浦和の原点だ」と熱く話す。
物事にはいい事も、悪い事も確かにある。浦和レッズだって良い時ばかりでは無いのは理解出来る。ただ、レッズを含めて浦和を愛すると言う事がどう言う事なのか・・・決して忘れないで欲しい。
浦和と言う街にサッカー文化が根付き、そこにプロのサッカークラブが存在することは何にでも変え難い幸せな事である。
今、土田コーチは我が街の我がサッカークラブ「浦和」で仕事を出来る幸せを噛みしめている。「浦和」を愛するが故に幸せを感じる事が出来るのだ。それが、サッカーがある街の幸せなのだと思う。

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