浦和フットボール通信

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浦和レッズは「頂点を求められる理由」を自覚せよ。浦和と三菱 フットボールの伝承3 杉山隆一インタビュー

TOKYO, JAPAN - OCTOBER 14:  (CHINA OUT, SOUTH KOREA OUT) Ryuichi Sugiyama of Japan scores his team's first goal during the Tokyo Olympics Football Group D match between Japan and Argentina at Komazawa Stadium on October 14, 1964 in Tokyo, Japan.  (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

(Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

議論が止まないレッズのクラブ現状や戦力分析は他紙に譲ろう。シーズン2017開幕を前に本誌はあえてアングルを変え、遠く静岡の地からレッズの未来に思いを馳せる日本サッカーのレジェンドにスポットを当てる。レッズの前身・三菱重工サッカー部OBの重鎮にして常勝ジュビロ磐田の黄金時代を築いた中心人物、杉山隆一氏のコメントをお届けする。インタビュアー豊田充穂

Text/Mitsuho Toyota
Photo/Yuichi Kabasawa、The Asahi Shimbun/ゲッティイメージズ

杉山隆一 Ryuichi Sugiyama
1941年静岡県生まれ。現役時代は黄金の足と言われた左足から強烈なシュート、クロスを武器とした左のウイングとして、活躍。日本代表ではFW釜本邦茂氏とのコンビで、東京五輪ベスト8、メキシコ五輪では銅メダルを獲得した。三菱重工でも1969年、73年の日本リーグ優勝に貢献した。現役引退後は、ヤマハ発動機の監督を務め、ジュビロ磐田の礎を築き、スーパーバイザーとしてジュビロの黄金期も築いた。現在は、静岡県サッカー協会副会長を務める。2005年日本サッカー殿堂入り。

「御三家」はかけがえのない場所。

UF:デトマール・クラマーやヨハン・クライフの死去を悲しむ間もなく、岡野俊一郎さんも木之本興三さんも亡くなりました。浦和・埼玉でも日本サッカー創成期の記憶や思いが遠のきつつある。そこで三菱のレジェンド、杉山さんの登場を仰いだ次第です。

杉山:銅メダルの威光というなら、早く若手に乗りこえて行って欲しいのですが(苦笑)。メキシコのメンバーも少なくなったね。年下だった森(孝慈)も亡くなるし……。

UF:本誌連載のテーマに照らしても、横山さんや森さんとともに三菱の黄金期を担い、指導者としてジュビロ全盛時代も築いた杉山さんの提言を外すわけにはいきません。

杉山:(本誌バックナンバーを眺めながら)浦和か……懐かしいよね。我ながら素晴らしい出会いに恵まれ、育ててもらったサッカー人生でした。これは浦和も同じと思うけど、静岡で過ごした少年期にサッカーを教えてくれたのは普通の先生とか地元の大人たちなんです。現在のようなサッカー専任のコーチなんていない時代。だからなおさら人との繋がりがあり、サッカーを受け継ついでいる地域があり、そこに築かれた伝統の中で過ごした時間は忘れがたい。

UF:森さんも永井良和さんも、Jリーグや日本代表の基礎を作り人材を育ててきた方たちは例外なくそうコメントされます。

杉山:いや、そうあるべきものと思いますよ。サッカーには挨拶や作法から始まる人間教育が含まれる。日本代表に選ばれ指導者にも育って行く才能が、人間的にも優れている例が多いことは自分の経験をふり返っても疑いようがない。だからたとえレッズやジュビロが勝てなくても、サッカー御三家の静岡、埼玉、広島は特別なんです。いまもサッカー界にとってかけがえがない場所であると思う。(編集部注:御三家とは旧師範学校教育の流れをくんで選手、指導者を輩出した“サッカーどころ”の3県を指す)

UF:三菱重工の主力だった森さんは広島(修道高)で落合弘さんは浦和(市立高)。横山さんも川口高校の出身でした。

杉山:そう、みんな御三家出身だよね。当時の藤枝、浦和ならベスト4あたりはノルマだな。そこにも届かなければ地元に帰れない空気さえあったと思う。いまは勢力図も変わってどこが勝とうが不思議じゃなくなったけど。静岡ではいまも「藤枝が勝たなくちゃ話にならん」という声が多いし、私の自宅が藤枝東高グラウンドの近く。県予選になると地元の人がぞろぞろと観戦に来るんだよ(笑)。でもこういう熱は消してはいけないから。自分も地元の面々と協会で討議して静岡サッカーの復興に知恵をしぼっているところです。

TOKYO, JAPAN - OCTOBER 14:  (CHINA OUT, SOUTH KOREA OUT) Ryuichi Sugiyama of Japan in action during the Tokyo Olympics Football Group D match between Japan and Argentina at Komazawa Stadium on October 14, 1964 in Tokyo, Japan.  (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

(Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

UF:当時の日本代表メンバーを見ても、この3県出身者の数が突出しています。

杉山:当然そうなります。地域と学校が一体となって子どもたちを育て、しかも静岡なら藤枝(藤枝東高)、東高(清水東高)、清商(清水商業)、浦和なら市立(浦和市立)や西高(浦和西高)といった強豪を県予選でふるいにかけて選手権の舞台に送り出すわけだから。鍛えられてるし「日の丸が着けられたのは自分の力だけじゃない」くらいのことは体験的にわきまえてる子がそろっていた。そういう連中を長沼さん岡野さんがクラマーさんのノウハウを使って代表選手に仕立てあげるのだから、そりゃ世界レベルも目ざせたし銅メダルにだって繋がりますよ。

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取材は現在、杉山さんが副会長を務める、静岡県サッカー協会で行われた。

取材は現在、杉山さんが副会長を務める、静岡県サッカー協会で行われた。

磐田に築いた王国静岡のプロ組織。

UF:当時のクラマーさん率いる代表チームの強さの秘密やエピソードをお聞かせください。

杉山:私のパスをストライカーの釜本が決める……そんな得点場面ばかりが強調されるチームだったけど、八重樫さん(茂生 当時の代表主将)以下の先輩はもちろん、他のポジションを預かる後輩たちに対しても「役割をまっとうする」というピッチ上の責任は重大だった。いまだに“銅メダルイレブン”と言われるが、選手全員が多くの仲間やサッカー界の人々の貢献のもとに五輪(東京、メキシコ大会)を目ざしていることは深く理解していましたよ。で、そういう状況下で「私にはゲルマン魂がある。君たちの大和魂を見せてくれ」「タイムアップの笛は次の目標のキックオフの笛」といったクラマーさんの言葉を連日聞かされる(笑)。お互いの力量はもちろん、人間的にもあれほど分かり合えたイレブンはなかったと思います。

UF:オールドファンには懐かしい話です。しかし郷里のヤマハで指導者になってからの杉山さんは、日本代表にも先駆けてハンス・オフト(元日本代表監督)をクラブ首脳に招聘。メキシコ五輪以後は硬直していた日本サッカーの育成強化にも決定的な変革をもたらしました。

杉山:クラマーさんは日本文化まで身につけて国際舞台で渡り合えるトップチームを作ってくれました。でも世界のサッカーはその後も高速で進化していた。次の日本サッカーを託された我々は決断を迫られたわけです。

UF:あたかも時代はJリーグ開幕の改革期。ヤマハ発動機はジュビロ磐田に生まれ変わってJ1に挑みます。

杉山:ああいう段階になれば、もはや日本人ならではの“浪花節的”な運営は通用しないと思った。結果が出なければ主力クラスでも補強する、必要とあれば監督交代にまで踏みきれる……そういうプロらしい決定ができるクラブに成長するためには、やはりオランダという本場を経験してきたオフトから学ぶしかないと判断したのです。マンネリで停滞しているのに手も打てないような組織では失格。その意味では、あれだけ浮き沈みの激しい香川とミランで先発を張れない本田に頼る日本代表のW杯出場は危ないような気がしている。

UF:杉山さんのキャリアは荒田忠典さん(当時のジュビロ磐田代表)と組んだマネジメント時代に移って輝きを増します。オフトに基礎を築かせた後は日本人監督に戻しつつ、スキラッチ(イタリア)やドゥンガ(ブラジル)という大物を迎え入れつつ、数年のうちにJ1王者のタイトルを3度も取る組織を作りあげてしまった……。

杉山:荒田さんはもちろん敏腕だったけれどサッカーの経験はありませんでした。でもその分、私を通しての地元静岡や東京の協会との人脈作りとかサッカーに関する知識吸収の手際とかは凄かったね。彼の指揮下で預かる現場はやり甲斐があったし、スタッフや選手にも熱気がありました。

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「浦和は“サッカーの勝負”に徹するべき。

UF:そして忘れられないポイントがもうひとつ。その後の杉山&荒田コンビのジュビロからは、名波浩、中山雅史、藤田俊哉、高原直泰、服部年宏、田中誠、鈴木秀人といった地元出身のプレーヤーが続々と代表デビューを果たします。彼らを中心にアジアクラブ選手権も敵地で勝ちとった当時の磐田を、私たちレッズ支持者は羨望の眼差しで見ていました。

杉山:スキラッチ、ドゥンガは彼らの何よりのお手本だったし、舞台は静岡だからね。サッカーどころを自認する地元の子たちを育てれば盛り上がるよ(笑)。プロクラブとしてそこは欠かせない条件と思います。たとえば正月の高校選手権、浦和のあなた方にはどう見えた? 最近の強豪校は全国から才能を集めた選抜軍で凄いテクニックも見せてくれるけど、そこにサッカー本来の魅力があるかといえば疑問でしょう。レッズは三菱の中でも地元出身の横山や落合が支えて来たクラブ。サッカーどころのプロなのだから、そういう育成の視点は継承して欲しい。もちろん補強は大事だし、時間も経ってるから仕方ない部分もあるが、最近は「このメンバーがレッズなの?」と戸惑う時も多いので。

UF:そのあたりはレッズに限らず、Jのサポーター大半が抱いているプロクラブの理想像と思います。

杉山:浦和へは三菱や代表時代の仲間のお誘いでイベント等にお邪魔するが、サポーターが集まるあの居酒屋は良いよね。「力」と言ったっけ?。静岡でもさすがにああいう場所はありません。浦和のサポーターはサッカーに対して厳しいし熱いよね。あそこまで情熱的な応援があるのはサッカーどころだなと感じます。シーズン中は熱く応援し、オフになったら仲間と語り合う場所がある……うん、サッカーの街なんだなと。

UF:その浦和は杉山さんの古巣・三菱重工に資本参加を仰ぎ、経営面からもレッズ復活に加わっていただくことになりました。OBからのメッセージをお願いします。

杉山:私が指導者としてスタートした頃のヤマハは社員八千人。選手として在籍した頃の三菱はグループ総勢で八万人。多くの人たちが支えて来た伝統の中で、選ばれた先輩たちのもとでプレーする機会を得たわけです。そういう下地がなければ、私や横山、森が五輪でプレーするチャンスは恐らくなかった。埼玉スタジアムにはいつも3万4万というサポーターが来場します。レッズの選手諸君はそういうチームのプロであるという立場が、自分だけで登りつめた場所ではないことを肝に銘じて欲しい。昨季の結末は見届けました。バラエティ番組で目立つより、プロなら「サッカーそのもの」で巻き返すべきと私は思う。人に負けないということは、まずは自分に負けないということなのですから。

かつて南米プロから20万ドルのオファーを受け「黄金の足」の異名をとった杉山氏も、いまは孫のサッカー談義に目を細める75歳。しかし別れ際、現役時代を彷彿とさせる目の輝きから贈られたエールは心に刺さった。

「三菱の流れを引き継いでプレーする舞台は浦和・埼玉……そんな環境を与えられたからには“二番じゃダメ”なんです。地元の皆さんによろしくお伝えください」

(2017年2月 静岡市内にて)

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