浦和フットボール通信

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浦和フットボール交信 – Vol.11 ~ 岡田武史が語った「もしも、私がレッズを率いたら」~豊田充穂

豊田充穂浦和フットボール交信 Vol.11
~ 岡田武史が語った「もしも、私がレッズを率いたら」 ~
豊田 充穂(コピーライター)

4年に一度のサッカーの祭典、これだけは有り金をはたいても現地で目に収める――― 長らく堅持してきた自分のマニア史も途絶えた。岡田ジャパンの快挙とスペインの栄冠までの瞬間を、私は睡魔と闘いながらの自宅テレビ観戦に甘んじた。海外での開催大会における初の決勝トーナメント進出。ううーん、歴史的モニュメントだったんだけどなあ。
「成果は認めるが、ゲーム内容には不満」――― 世の専門家やライターたちが声をそろえた総括には同意しかねる。勝ったからこそのサッカーへの注目度だったのだ。たとえそれが“感動! 日本イレブン結束秘話”だの“ニューヒーローのビッグマウス語録”だのばかりでも、もはや文句は言いません。ここで負けていたら、この国の大手マスコミは「代表チームのW杯戦術」を省みる場さえロクに残しておいてはくれなかったでしょう。あの騒ぎの熱が冷め、舞台がJに移った今日この頃。サッカー情報は無事にプロ野球やゴルフ、賭博疑惑に揺れる相撲界ニュースの後方定位置に収まっている。

■“使命”から逆算された、岡田ジャパンの戦術。
今春、『浦和フットボール通信』の取材時に会った永井良和氏の岡田武史評を思い出す。再び「時の人」となった日本代表監督は、氏の日本リーグ・古河電工時代のチームメイトであり良き後輩でもあるのだ。
「岡田クンは凄い星の下に生まれていると思います。もちろん(指導者としての)実力も素晴らしいの一言につきる。でもジョホールバルにしろマリノスのJ制覇にしろ、流れをつかむ運もなくちゃああいう成果は考えられない。だから僕は皆が心配するよりは今度のW杯の日本、期待しているんです」
赤き血のイレブンの予言は的中した。私見を加えるなら、岡田監督に感じた凄さは「日本にとっての今回W杯の重さ」に徹底したリアリズムで取り組み、変わらぬ方針を貫いたことだと思う。負ければ一巻の終わり。2010年以降、延々と続く危険があった日本サッカー界の低迷に、なりふり構わず歯止めをかける。そのためにはどんな批判や雑音にも惑わされない。自分の経験から確信した要素を満たすためだけに手を尽くす……。「凄い星の下に生まれた」代表監督は、持ち前の監督哲学を貫いて「流れをつかむ運」も引き寄せて見せた。
もちろん最大の焦点となったのは初戦のカメルーン戦だ。ここ一番でミッションを果たした1トップへの戦術変更には敬服するしかないが、試合展開も忘れがたい。最低でも7人、時には唯一の兵器・本田圭佑のみを前線に残して全員を守りの布陣に置く。可能性は少ないが形にハマった先制点でも転がり込もうものなら、繋ぎを無視したロングキックは当たり前。それで格上の相手が焦ってくれるなら、ボールの飛行時間だって計算内……。後半なかばからの中継を観ながら、典型的なオールドファンの私は妙に懐かしい気分になった。日の丸DF陣が味方もいない敵陣に蹴り続ける力まかせのクリア。たまに自分の足元に届くそのボールを3人がかりのDFを背負ってキープを試みる本田が、少年時代に見た「世界のカマモト」に見えた。ライン際に張り、持ちうる個人技をすべて使ってクロスを狙う松井大輔が「黄金の足スギヤマ」に見えた。ここ一番の大勝負で日本人が選んだサッカー。それが40年を経てウリふたつの相似形で甦っていた。
ジャーナリストたちの指摘通り、これを日本サッカー退行の表われと見なす意見もあるだろう。だが、ワールドカップのような舞台では、各国に受け継がれたサッカーのDNAは往々にして顔をのぞかせてしまうものではないのか。とりわけ今回のような大一番となれば日本であろうと強豪国であろうとそこに変わりはない。それが私の印象である。70年のブラジルとイタリア、74年のオランダとポーランド、82年の旧西ドイツ、86年と98年のフランス……それぞれの国が、良くも悪くも「らしい」プレーと試合展開で世界の耳目を集めた。むろんこれら列強の派手さはないが、日本サッカーにも受け継がれたDNAは存在する。攻めの切り札で食らわせた一撃を、持ち前の組織で守りきる。並みいる強国相手に一定の成果を得るこのスタイルは、まさしくサッカーにおけるJAPANデビューとなったメキシコ五輪イレブンの方程式そのものだ。そしてそのDNAは岡田武史という指揮官本来の哲学と戦術(レッズサポには周知のものだが)にハマったのだ。「継承する」はずだったオシム・サッカーよりも、遥かに。

■「URAWAを率いて勝つ。指揮官としてそれは本当に難しい」
さて、この岡田監督と浦和レッズの因縁である。マリノスとのチャンピオンシップ(2004年)を思い出す方も多いだろうが、ここでは椛沢編集長への今回返信の意味からも、あのJ2の舞台で辛酸を舐めさせられた札幌時代の岡田氏を思い出してみたい。
そこにはJ1昇格という「使命から逆算」された彼のサッカーに翻弄される浦和レッズの姿が浮かび上がる。サポーターにとっては心に留めておくべきエポックと思う。
岡田監督はレッズが降格する99シーズンに代表監督退任後の初仕事として札幌の指揮を執ったが、結果はJ2の5位。ノルマを達成できず「無意識のうちに(W杯の代表監督としての)フランスのキャリアを引きずり、身の丈に合わないサッカーをやろうとしてしまった」とのコメントを残す。
翌年のシーズン2000は、参入してくる浦和レッズと昇格切符を競うマッチレースとなった。クラブチーム統率2年目、経験を積んだ岡田コンサドーレ。そして屈辱の降格を喫するも、前年同様の戦力とサポーター動員を背景に「J2全勝」を掲げる浦和レッズ。当時の両者を比較してみると、その背景には格差が見て取れる。小野伸二が残留し、鹿島から室井市衛、阿部敏之を獲得。助っ人としてクビツァとピクンをそろえるレッズの運営費はJ1級の27億円。“格安”のエメルソンを発掘した以外は、他で出番を失った数選手を補強したのみのコンサドーレのそれは9億円に過ぎなかった。そして……パワーバランスにおいてこれほど優勢だったはずの浦和は、札幌との4度の対決で1勝もできないという惨敗(1分3敗)を喫してしまう。


浦和レッズ2001戦記―再生への序章 豊田充穂著 小学館刊
J1で再対戦した宿敵・岡田武史率いる札幌との対戦等が描かれる。

このシーズン2000の翌年、私は某スポーツ系サイトの執筆で岡田監督に単独インタビューを行なう幸運を得た。与えられたテーマはコンサドーレに関する話題だったが、むろん「あの惨敗」を食らった敵将の見解を聞けるチャンスなど他にはない。想像していたよりもずっとソフトで気さくなイメージだった岡田監督は、こちらのリクエストのままに自身の「レッズ観」を細やかに語ってくれた。改めて読み返してみても、当時の札幌で実質的なGMも兼ねていた彼の言葉からは見逃すことができない独自のチーム掌握術、クラブ改革術、そして我らがレッズが慢性的に抱える問題点もかいま見える。

― 監督が率いた札幌に去年のレッズは完敗を喫しました。戦力比較からすれば考えられない結果なのですが……

岡田 浦和からすれば未体験の環境でのサッカーだったと思います。そんな中で長期のリーグ戦を戦うのだから。簡単には行きっこない。

― でもあそこまで采配が的中すれば、会心の勝利でしょう?

岡田 言われるほど私は緻密に考えるタイプじゃないよ(笑)。ただレッズが“良いゲーム”とか“綺麗に勝つ”という思いに縛られてくれることをひたすら待った。そこにしかウチの勝機は無かったから。だから勝因は、戦術とか采配ではないです。むしろ札幌で大切だったのは現場からトップまでの意思疎通。その意味では選手の組み合わせあたりにはいちばん神経を使いました。

― レッズよりも遥かに予算は少ないし……。

岡田 そうそう。だから、安くてウチに必要なタイプに必死に声をかけまくった。エメルソンを別にすれば、キーマンは市原(現ジェフ千葉)から来てくれた野々村芳和だね。ピッチ上でガンガン声が出るタイプだし、チームの情況も正確にベンチの我々に伝達できる。実に頼れる存在でした。

― 代表監督時代とはまったく違う選手選びですよね。

岡田 その通りです。良い選手というよりも内部の情況に合う選手を選ばなくてはならない。札幌での1年目、僕はそこを省略して自分が作りたいサッカーばかりを追って失敗した。社長とGMがいて、監督とコーチがいて、そしてプレーヤーが試合をする。それぞれのコミュニケーションを取りながら進まないとクラブという組織は機能しません。

― 大学時代の同窓で北海道出身の小山哲司さん(元札幌、横浜マリノスGM)をフロントに迎えたのも、その一環でしょうか?

岡田 組織整備のメドが立ったら次はホームの存在がある。これも初年度の自分の反省点なのだけれど、地元を知りファンをしっかり掌握しない限りクラブの統率なんて生まれません。小山は北海道で教師をしていた経験までありましたから。一刻も早く札幌を知り、馴染むためにも来てもらった。彼の存在なしに昇格はなかったでしょう。

― そんな岡田監督に「監督になって欲しい」という浦和サポーターの声もあるのですが……。

岡田 私がレッズに行く? ウソでしょ、あんなにブーイングされてるんだし(笑)。

― やはり浦和レッズを率いることは、大変なことですか?

岡田 気の毒、と言ったら失礼だろうけど。圧倒的有利と言われる中ですべての敵が自分たちに照準を合わせてくる。サポーターの期待もすごい。周りじゅうから高い成果を要求される。いろんな“しがらみ”を背負って戦わなくてはならないからね、レッズというクラブでは……。

― その“しがらみ”とは?

岡田 さっき言ったことも含めてもろもろ。そりゃあ一言じゃいえないし、部外者の私が口にするのも……(笑)。でも、監督という立場から見ても「浦和ならではの難しさ」というのはあるでしょう。直接対戦してみて、それが外から見る以上に厳しいことは良く分かった。札幌に負けたと言ったって、あの条件のもとでJ2を勝ち上がったチームは他にはないんです。レッズというのは、それほどの力を秘めたチームということなんです。

10年も前のコメントではあるが、この岡田監督の言葉にレッズの現状に立ち会う諸兄はどんな印象を持たれたか? あれからのレッズは様々なことが変わった。スタジアムは2万人定員の駒場から6万人超を収容する埼玉スタジアムへ。リハビリに励む福田正博や小野伸二の姿が窓から素通しで見えたプレハブ並みのクラブハウスは、J屈指の環境を備えた近代設備へ。そしてリーグ制覇を果たし、アジア王者も……。だが、当時すでに最も成功した日本人監督の一人であった彼が指摘した「浦和ならではの難しさ」は、我々の内部で深く検証される機会はあったのか。多方面からのプレッシャーに晒されるレッズ指揮官の座は、一貫した理念で維持されるようになったのか。浦和レッズ9人目の外国人監督となるフォルカー・フィンケ。その政権はいま、真価を問われる岐路に立たされている。

(第11稿 了)

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