日韓戦で代表デビューの浦和プレイヤーが活躍 語り継ぐ浦和・埼玉 サッカー名勝負 日本代表編【浦和・埼玉サッカーの記憶】
クラウドファンディングで実現した浦和埼玉のサッカーの歴史を残す書籍「浦和・埼玉サッカーの記憶 110年目の証言と提言」が 浦和フットボール通信SHOP、(須原屋書店浦和本店、コルソ店、武蔵浦和店、松田青果、WAベーグル)にて1500円(税別)にて好評発売中です。このコーナーでは書籍で掲載している内容をご紹介します。
浦和・埼玉サッカー名勝負
地元サッカーの黎明期から、浦和レッズのアジア制覇まで……サッカーの街を熱狂させ、その過去と未来を繋いだ全30戦を振りかえる。今回は埼玉浦和サッカーから見る、日本代表名勝負10番から浦和南で高校三冠を達成して、日本代表デビューとなった永井良和さんが活躍した、日韓戦の試合を紹介します。
日本代表 名勝負10番
1997年晩秋、都内の駅改札でようやく手に入れた号外には、「日本、ワールドカップ初出場」の見出しが踊っていた。劇的な延長Ⅴゴールでジョホールバルの主役となったのは、浦和レッズFWの岡野雅行。その凱旋を迎えるJR浦和駅前を埋めたレッズサポーターの数は1万人近くに達したという。それは日本サッカーの国際試合初勝利となった1927年フィリピン戦の主軸を担った高師康、松沢藤一郎コンビ、1936年ベルリン五輪の奇跡を演じた竹内悌三主将らに始まる郷土のフットボーラーたちの「日本代表への思い」の結実だった。
【収録試合】
1 ■1927年8月29日 日本 vs フィリピン
2 ■1936年8月4日 日本 vs スウェーデン
3 ■1964年10月14日 日本 vs アルゼンチン
4 ■1968年10月24日 日本 vs メキシコ
5 ■1971年10月2日 日本 vs 韓国
6 ■1985年10月26日 日本 vs 韓国
7 ■1996年7月22日 日本 vs ブラジル
8 ■1997年11月17日 日本 vs イラン
9 ■2002年6月4日 日本 vs ベルギー
10■2010年6月19日 日本 vs デンマーク
※国家代表チーム同士の対戦を対象に選出
GAME5 1971年10月2日 ミュンヘン五輪予選
立ちはだかるライバル韓国、閉ざされた五輪連続出場への道。
19歳、永井良和の代表デビュー得点及ばず。次代の日本サッカー界にたちこめる暗雲。
この予選は東京大会以来の五輪出場を目指すライバル韓国での集中開催だった。雨中で行われた緒戦で伏兵マレーシアに0-3の苦杯を喫してピンチに陥った日本は、天王山の韓国戦に高校三冠を達成した浦和南高出身のFW永井良和(古河電工)を起用。47分に韓国に先制されるが、ポスト釜本の期待を担う永井はスピーディな動きで韓国守備網を再三突破し、52分には杉山の左センタリングをダイレクトシュートで蹴り込む。1-1に追いつくこの同点弾は敵地のソウル運動場スタンドを沈黙させたが、ゲームは32本ものシュートを放った韓国が日本を圧倒。終了間際に決勝点を流し込まれて、もはや日本優位ではなくなったアジアの勢力図を見せつけた。この予選の結果は韓国にも完封で勝ちきった伏兵マレーシアが出場権を獲得。総合順位で3位に落ち込んだ日本代表は永井ら数人の若手以外にはメキシコ戦士に替わる台頭もなく、以後の長い停滞を予感させる敗戦を喫した。
第20回 オリンピック・ミュンヘン大会 アジア地区予選
韓国2(2-0、0-0)1日本
1971年10月2日 韓国・ソウル運動場 観衆30,000人
◎日本代表 得点者:永井良和
日本代表メンバー
監督:岡野俊一郎
GK:横山謙三、船本幸路
BK:片山洋、宮本征勝、山口芳忠、富沢清司、荒井公三、小城得達、大野毅、森孝慈、藤島信雄、古田篤良、崎谷誠一
FW:宮本輝紀、吉村大志郎、上田忠彦、杉山隆一、釜本邦茂、足利道夫、永井良和
日本代表名勝負10番を水沼貴史さんが解説
――永井良和さんは日本リーグ全盛期の最後のスターだったように思います。しかしあの当時は丸の内御三家(三菱重工、古河電工、日立)を中心に、多くの浦和・埼玉の才能が日本のトップリーグに送り込まれました。落合弘さん(三菱重工)、川上信夫さん(日立)も含めた三人は、代表選出の回数も考えれば文字通り私たちのレジェンドと言えるでしょう。
水沼:当時の浦和の先輩たちはレジェンドと呼べる選手が数多くいらっしゃいました。永井さんは南高の先輩ですが、とにかくボールを持ったら何かをしてくれるという期待感のある選手だったことを記憶しています。左のタッチラインから切れのあるドリブルでゴール前に切れ込んでいって、ゴールを仕留めるという素晴らしい選手でしたね。
――それにしても、繰り返し日本代表の前に立ちはだかった韓国への恨みは言い出したらキリがないですね(笑)。インタビューで永井さんに伺ったのですが、少なくともミュンヘン五輪予選段階でのイレブンを比べれば、「地味だけど韓国が断然上。僕あたりがホープと言われているようじゃ勝てないレベル」と言われていましたが、、、
水沼:当時から韓国はアジアのライバルでしたね。
――しかし、その韓国相手には水沼さんは頼りになりました。胸のすくゴールシーンがいまだに忘れられないのですが。1984年、アウェーの日韓定期戦で、完成したばかりのソウル五輪(1988年)のメインスタジアムで痛快な決勝ゴールを決めてくれました。ただ、あの時の韓国イレブンは若手中心のサブメンバーが主体だったようですね。
水沼:蚕室五輪スタジアムでのゴールは私の日本代表Aマッチ初ゴールでした。今でもハッキリ覚えていますね。加藤久さんから原博実さんにボールがわたって、私がつま先でコントロールをして、ハーフボレーで逆サイドのネットに突き刺したゴールを決めました。確かに韓国代表は二軍と呼べるメンバーだったのですが、敵地で韓国代表に勝利するゴールを決められたのは歴史的にも大きな勝利でしたし、気持ちよかったですね。
この試合でゴールを決めた永井良和さんからの寄稿文も掲載
「南高での三冠達成 日本代表での思い出」永井良和
メキシコ五輪銅メダルを獲得した次の大会で日本ファンの期待が高まる中で、日本はマレーシアに敗戦をして背水の戦いとなった韓国戦でした。それが僕の日本代表のデビュー戦でした。
当時の日本と韓国を比較すると、韓国は日本戦になると絶対負けない精神力、身体の強さ、非常に力強いサッカーで、攻撃はワンツータッチでの単純な素早い攻撃に特長がありました。日本は攻守の切り替えの早い、オーソドックスなサッカーをする特長を持っていました。当時のファンは韓国がボールキープをすると、大騒ぎ、逆に日本がボール回しすると、シーンと何もかもが静かになる。私が得点を決めた時は本当にグラウンドが静寂で驚きでした。僕はこの韓国戦で、杉山隆一さん、釜本邦茂さんとスリートップを組めたこと、得点をしたことが、のちの僕のサッカー人生に大きな自信となったのは確かでした。
私は浦和でサッカーを始めて日本代表としても活躍することができました。当時から「埼玉・浦和を制するものは全国を制する」と言われていました。その言葉を胸に僕も頑張っていました。この言葉は今でも息づいています。頑張ろう!埼玉・浦和のサッカー少年たち!
なぜ浦和はサッカーで盛り上がるのか?「浦和・埼玉サッカーの記憶 110年目の証言と提言」好評発売中
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