浦和フットボール通信

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河合貴子のレッズ魂ここにあり!「浦和を愛した戦士 森孝慈」(7/28)

J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

浦和を愛した戦士 森孝慈

レッズの初代監督で、GMを務めて浦和を愛していた森孝慈さんが、7月17日腎盂ガンで亡くなった。23日に埼スタで行われた甲府戦では、「浦和の親父森孝慈ありがとう」と横断幕が掲げられた献花台が設置され、選手はもちろんだが、クラブ関係者も喪章を付け、ベンチには森さんの遺影を置いて試合に臨んだ。森さんのご冥福を祈り黙祷が捧げられると、レッズのゴール裏から「浦和の誇り森孝慈 貴方の魂はこれからも生き続ける」と心から浦和を愛していた森さんだからこそのメッセージが出された。

試合後も献花台を訪れるサポーターは後を絶たず、森さんと共にレッズ創設からクラブを支えていた、ミスターの愛称で親しまれている佐藤仁司さんが、献花台の横で森さんとの昔話に花を添えていた姿は優しい愛情に包まれていたが、哀愁が漂っていた。

森さんが代表監督時代にW杯最終予選で韓国に敗れて、監督を退任後プロ化の必要性を痛烈に感じ奔走され、そして三菱自動車サッカー部のJリーグ参加を見据えてのホームタウンを探しに困り果てている所に、Jリーグ誘致でホンダとの交渉が決裂した浦和と出会い「浦和レッドダイヤモンズ」が誕生したのだ。誕生にあたり、三菱自動車、浦和の街の方々、本当に多くの方々がご尽力をつくした賜であったが、森さんがいなくては「浦和レッドダイヤモンズ」は誕生しなかったと言っても過言ではない。まさに森さんは「浦和の親父」なのだ。

森さんとの出会いは、私にとってレッズそのものであり、浦和であり、森さんがレッズを離れていてもその絆は変わる事はなかった。監督、GM時代などは、大原のベンチに座り「良いかぁ~」と私の取材ノートに布陣を書き込み、丁寧にそして解りやすくサッカーを教えてくれた。「リベロ」と言う役割が理解出来ずに森さんに尋ねると「う~ん」と考え込み「自由人だ」と言って森さんのサッカー講義が始まった。浦和を離れてからも「飲みに行くかぁ?」と言う森さんのお誘いを都合が悪くてお断りすると、広島弁で「短い付き合いじゃったの~!」と決まりセリフを言う。カラオケは「ワシが最初に20曲歌うから・・・」と言って20曲をエントリーして、全て1コーラスで終了して満足そうな笑みを浮かべて「良し!では、ハートがグッと来るような脂っこい歌を歌え」と無理難題を言う。酔えば、周りの女性は全員「みっちゃん」になる。酔って居てもサッカーの話になると目つきが変わる。浦和の街で何軒も梯子して「明日の仕事がありますから・・・森さんそろそろ失礼します」と私が言うと「明日は誰にでもやって来る!!」と高笑い。

享年67歳。あまりにも早すぎる。もっと森さんとサッカーの話がしたかった。もっと森さんと浦和の話がしたかった。森さんとの最後の会話は、6月11日ナック5スタジアムで行われた対大宮戦であった。試合前のロッカールームの前で、夕闇が迫る空を眺めながら「レッズは此処から始まったんだなぁ」と92年のナビスコ杯を思いだしたかの様に森さんは語り始めた。「あの頃は、ゴール裏に2階席なんてなくて芝生でしたね」と私が言うと、森さんは「良いスタジアムになったなぁ」と周りを見渡し嬉しそうに笑った。そして「ナビスコ杯、天皇杯と手応えがあったんだけどなぁ~」と森さんがつぶやき、勝てなかった時代を二人で振りかえりながら、現在のレッズの話をした。

その時、私が「お体は大丈夫なんですか?」と尋ねると、森さんの表情が曇り「ガンは、悪い所を全部取ったから大丈夫なんだが、神経痛が酷くて、夜も眠れないんだよ。とにかく痛くて堪らない」と言う森さんの言葉を耳にして、お別れが近い事を悟った。だから、森さんが私に言った最後の言葉は忘れない。優しい眼差しで「浦和を頼むよ」だった。森さんは最初から最後まで、レッズを愛し、全身全霊を注いだ方だった。

伝えたい思いはとめどなく溢れて来るが、言葉にならず、胸が痛く・・・。ただ言えるのは「森さん、浦和レッズと共にこれからもずっと一緒です」

心より森孝慈さんのご冥福をお祈り申しあげます。

後記

森孝慈さんの献花台は遺影と共に駒場スタジアム正面玄関ロビーに移され、7月31日まで毎日午前9時から午後5時まで献花する事が出来ます。どうぞ、森さんに会いに聖地駒場へお出かけ下さい。

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