浦和フットボール通信

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河合貴子のレッズ魂ここにあり!「懐かしく心地良い風~阿部勇樹選手」(2/8)

J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

イングランドのレスター・シティーFCから1年半ぶりに浦和レッズに復帰した阿部勇樹選手。「相当な覚悟を持って戻ってきた」という気持ちの裏にあるものは。阿部選手のレッズ復帰への想い、様子をタカねえが取材しました。

“イビチャ・オシム監督の申し子”と言われた阿部勇樹選手が、千葉から浦和に来た当時、浦和にセンセーショナルな熱い風が吹いた。阿部選手はジェフ市原(現ジェフ千葉)Jrユース出身で、ユース時代に16歳でJリーグデビューを果たし、ジェフ千葉時代には、当時のオシム監督からキャプテンを任されてチームを牽引して来た。ボランチもセンターバックもサイドも出来るユーティリティープレーヤーの阿部選手を、オシム監督は「ポリバレントな選手」と称して重要視していた。生粋の千葉育ちで千葉にとっては大切な阿部選手が2007年に「アジアと闘いたい。世界と闘うために浦和に来ました」と言って浦和に移籍して来たのだ。浦和のファン・サポーターの阿部選手に対する期待は、計り知れないものが当時もあった。

そして、2010年南アフリカW杯後に阿部選手は「海外でプレーする最後のチャンスだと思う」と話し、「もっと浦和で活躍して欲しい」と惜しまれながらも、更なるフットボールの向上を目指して、浦和からレスター・シティーへと旅立って行ったのだった。たったこれだけの経緯を見ても分かるように、阿部選手はどんな時でもフットボールに懸ける向上心、探究心を持ち続けている選手である。その阿部選手が約1年半の月日を経て浦和に戻って来てくれたのだ。イングランドでプレーしたい気持ちと自分の年齢やパフォーマンスなどが良い状態の時に日本に戻りプレーをしたい気持ちとの葛藤が阿部選手の中にあった。悩んだ末の決断だった。しかも千葉では無く、浦和に復帰した事が何よりも嬉しく感じた。

浦和が宮崎キャンプを終えて、大原での練習が再開した初日、背番号22番を付けた阿部選手の姿があった。少しハニカミながらチームメイトの輪に加わる阿部選手は、怪我して長期離脱していた選手が、合流したかのように全くの違和感がなかった。阿部選手に「お帰りなさいって、言って良いのかなぁ?」と尋ねると「うーん」と少し押し黙り「帰って来たつもりは無い。在籍してた時もそうだが、自分はまだ、浦和で何も成し遂げていない。浦和に関わる責任と使命がある」と話した。如何にも阿部選手らしい答えであった。だからレッズフェスタでの新加入選手の挨拶でも阿部選手は「移籍して来たと言うか・・・。帰って来たと言うか・・・」と歯切れの悪い挨拶をした。その挨拶を聞いて「まさに阿部ちゃんだ!!」と思わずにやけてしまった。

阿部選手が「浦和で成し遂げれなかった事」とは?阿部選手は移籍1年目でACL優勝を獲得した。そして、FIFAクラブW杯では、大会のMVP候補8人の中に、唯一浦和から選ばれた。浦和が栄光に輝いた時に手に入れる事が出来なかったのは、リーグ優勝である。だが、阿部選手は「浦和でやり残した事がある」と、はっきりと言うが、リーグ優勝とは言わない。阿部選手は「言葉にして口にするのは簡単だが、それを実行し、表現するのは難しい。とにかくピッチでどうプレーするのかを見て欲しい」と以前から話していた事を思い出した。その積み重ねが、やり残した事に繋がって行くのだろう。

阿部選手はミーシャ監督のサッカーを「オシムさんと似ている」と表現した。そして「オシムさんは、30歳超えてもベテランとは言わない。まだまだやらないと!!若い奴らには負けていられない」と笑った。イングランドに行ったからと言って、阿部選手の熱いハートが変わる事はなかった。それが妙に懐かしく感じ、ここ数年で浦和が無くしてしまった物を、温かい優しい風が運んで来てくれたように心地良かった。

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