浦和フットボール通信

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河合貴子のレッズ魂ここにあり!「信じあう絆~原口元気選手」

J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

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強い絆で結ばれた浦和を愛する人々は、あなたを信じていつまでも待っている。

海外でプレーをすること。それはフットボーラーにとっては、夢の扉の1つである。

原口元気選手も、ずっと海外でプレーをすることを夢見ていた。

「海外で自分がどれだけ通用するかやってみたい」と入団当初から原口選手は目をキラキラと輝かせながら話していた。そして、ドイツのブンデスリーグのヘルタ・ベルリンへの完全移籍が決まった時、原口選手は「自分の目標である『日本一の選手になる』ことを叶えるために、もう一歩成長しないといけないと思った時に厳しい環境に身を置きたいと移籍を決断しました。もっともっと上手くなりたいという気持ちを抑えることが出来なかった」と話し、ついにその夢の扉を自らの手で開けたのだ。

「レッズでやっていなかったら、もっと早いタイミングで海外に行っていたと思うけど、良い準備が出来たなぁって感じだ。やっと、自信を持って行けるような選手に自分の中でなれたと思っている。その準備が出来たから、行く訳だしね」と原口選手はJrユース、ユースとレッズで過ごした10年半の重みを振り返るように話した。

確かに、浦和に所属していなければ、もっと早い時期に海外移籍が実現していたのは事実だと思うが、海外で挫折して何も得ずに帰ってきていたかも知れない。

熊谷の江南南サッカー少年団時代、原口選手が原動力となりチームを全国制覇へと導き、小学生ながら果敢にドリブルで攻め込みゴールに襲いかかる姿は「江南の鷹」と異名をとるほど当時、恐れられていたのだ。また、その一方でゴールに固執するがあまりに我儘で自分勝手で協調性が欠如しているとまで言われていた。小学生ながら、才能溢れる凄い選手であることは間違いなかったが、チームプレーが大原則で『和』を重んじるフットボールにおいては、かなり問題がある選手だと当時は思っていた。

Jrユースに原口選手の入団が決まった時、何故、原口選手を入団させたのか、育成担当だった村松浩氏に尋ねたことがあった。村松氏は「確かにメンタル面では問題がある選手だ。あの性格ゆえに元気が持っている才能もこのままでは潰れてしまう。だから、浦和が全ての面において育てる。きっと良い選手になるよ。元気の成長を楽しみにしていて」と笑っていたことを思い出した。

振り返れば、原口選手がユースチームに昇格した1年目からサテライトの試合に出場し、2008年には2種登録選手としてトップ登録され、大原の練習場に自転車に乗って通っていたのだ。練習が終わると、必ず1年先輩の山田直輝選手や高橋峻希選手に声を掛けて一緒に帰宅していた。山田選手たちが、メディアの取材対応をしていると原口選手は口を尖らせて「まだ~、早く!」と声をかけていた。山田選手たちが「待ってなくて良いから、先に帰れよ!」と言うと、つまらなそうにその周りを自転車でぐるぐると回り、1人で帰ることは決してなかった。そんな原口選手の姿を見て、高原直泰選手(ブンデスリーグ5シーズン通算24得点)が「大原から1人で帰れないような奴が、海外に行きたいなんて、俺から言わせりゃ甘い!」と一喝していたのだ。

また、「22人の中で一番ピッチで輝いていたい」という思いが強い原口選手は、その思いが強いが故に、途中交代で不満を露わにしたり、チームメイトと衝突をしたりすることがあった。山田選手は「試合中によく言い合ったり、喧嘩ばかりしてた。でも俺は、好きでしたよ。元気のそういうところ」と笑顔をみせた。自分自身の気持ちに素直すぎるところが、原口選手の短所でもあり長所でもあった。

原口選手は「10年半、全てがレッズで始まり、全てのことをレッズで学んだ。正直、他のチームを知らない。僕がしているプレーだったり、僕の全てを作ってくれたクラブだった。自分の中の心残りであるタイトルが獲れなかった。必ず帰って来て成し遂げたいし、僕が帰ってくるのは、浦和レッズだけだし、欲しがってもらえるプレーをしないといけないし、帰って来るときは、必ず『日本で一番の選手』になって帰ってくる。少年団以外は、ずっとレッズだったので、箱入り息子なんで・・・。他のクラブがどんなのか?分からないけど、正直、厳しくも優しくも育ててもらった」と感謝の思いを口にした。

まだ幼心が残る少年だった原口選手は、紆余曲折しながら10年半の年月をかけて、海外で闘える選手へと変貌を遂げたのだ。

原口選手はヘルタ・ベルリンへの移籍にあたり「誰も原口元気を知らない。また、一から原口元気を作らなきゃいけない。誰も知らないところに行ってまた、新しい自分を作って行きたい。より、ストロングな部分を伸ばして行きたいし、世界でもドリブルが通用する、1人で打開出来るようなプレーが出来るようになりたいし、日本人が足りない部分だと思うから、俺がそういう存在になっていきたい。取られても、取られても仕掛けていく」と固い決意を話した。その固い決意は、浦和で成し遂げることが出来なかったタイトルの栄光に輝くための表れでもあった。

山田直輝選手は「正直、昔から元気は(原口選手)世界にチャレンジしに行くと思っていた。だから、驚きは無かった。楽しみにしている。あいつは、自分の持っているものに自信がある。通用するかどうか?世界にぶつけて欲しい。僕から送る言葉は特に無いが、願わくば、悔いだけは残して欲しくない。僕は、しっかりと日本で結果を残す」とエールを送り、そして「元気、峻希(現神戸・高橋選手)水輝(濱田選手)タク(現長崎・岡本選手)最後に浦和に戻って来て、みんなでやろうと話した。僕もどこでプレーしているか分からないけど、今のままでは、僕もだめなんでね。でも、最後はこのチームでと思ってみんなでやっている」と話した。ユース時代に高円宮杯で優勝したメンバーが、それぞれの立場で更なる成長をとげ、最後は浦和で優勝の栄光に輝く思いであった。それは、ずっと一緒に闘って来た仲間の信じあう強い絆で結ばれていた。

信じあう絆は、チームメイトだけではなかった。原口選手のラストゲームとなった6月1日名古屋戦後、ゴール裏に浦和のエースナンバー『9』が大きく誇らしげに輝いていた。

浦和を愛する人々も、原口選手がドイツで活躍し必ず『日本で一番の選手』になって浦和に帰って来ることを信じている。何年後か、いつの日かきっと浦和の『9』番を背負い、タイトルの栄光を一緒に勝ちとる日を待ち望んでいる証に思えた。

育ててもらった恩、シーズン半ばなのに励まし送り出してくれた仲間への思い、一緒に闘ってくれた仲間へ「ありがとう」と様々な感謝の思いを籠めて原口選手は、ドイツへと旅立って行った。信じあう強い絆で結ばれた仲間の下へ、必ず帰って来るために、浦和が優勝の栄光を手にするために、原口選手は夢の扉を開けて未来に向って歩き出した。「またね、元気!行ってらっしゃい」強い絆で結ばれた浦和を愛する人々は、あなたを信じていつまでも待っている。信じて待っている人達がいるから、原口選手は『日本一の選手』になって必ず浦和に帰って来る。いつの日かきっと・・・。

Q.半月板損傷以外でキャッチングやロッキングが起きることはあるのでしょうか?

A.ごく稀に、子供の時に軟骨を傷めたり、小さい軟骨を骨折したりすると、間接の中に、骨や軟骨が落ちてしまい関節の中でネズミ見たいに動いてしまう間接ネズミがあります。関節ネズミが、たまたま関節の体重がかかるところに挟まると、急に痛みが出たり、膝が動かなくなってしまいます。関節ネズミが、別の場所に移動にしてふっと取れると正常に戻ります。頻発して引っ掛る人は、関節ネズミを取り除く手術をします。

川久保誠 profile
1981年慶應義塾大学医学部整形外科教室入局。93年医学博士。94年英国リーズ大学医学部大学院へ留学、修士課程修了。96年より慶應義塾大学病院膝関節・スポーツ外来担当。東京歯科大学市川病院整形外科講師を経て2004年4月より川久保整形外科クリニック院長となる。浦和レッズレディースのチームドクターも務めた。

川久保整形外科クリニック 整形外科・スポーツ整形・リュウマチ科・リハビリテーション
http://www.kawakubo-clinic.jp/

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