【レッズはなぜ優勝できたのか/河野正】仙台でも背番号19だった武藤は、浦和での19番のほうがはるかに光り輝いている(2015/6/29)
第16節の神戸戦で1試合を残して第1ステージ優勝を決めていた浦和が、新潟との最終戦にも大勝し、開幕から無敗のまま前半戦を締めくくった。1993年から11シーズンにわたって22度開催されたステージでの無敗チームは初めてだ。今季は2004年以来、11年ぶりに2ステージ制が導入された。
現行の18チームによる2ステージ制は98年に1度だけ実施され、第2ステージを制した鹿島の戦績は15勝2敗で、第1ステージ優勝の磐田は13勝4敗だった。16チームの時代だと、磐田が2度、鹿島と横浜FMが1度ずつ1敗でステージ優勝を果たしている。往時、隆盛を誇ったこれらのチームと比較してみても、浦和の12勝5分け0敗はJリーグ史に残る出色の数字と言える。
今季は11人が新たに加入した。岡本拓也、小島秀仁、大谷幸輝が期限付き移籍先から復帰し、斎藤翔太と茂木力也が浦和ユースから昇格。さらに石原直樹、ズラタンら他クラブからの完全移籍組が6人という顔触れだ。9年ぶりのJリーグ王者奪還に加え、2年ぶりに出場したアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)での上位進出を目指して大量補強を敢行した。
浦和の山道守彦強化本部長は、「2ステージ制の難しいリーグと並行してACLを戦わないといけない。連戦の厳しい日程を乗り切るには、選手の質とボリュームが欠かせない」と説明している。
移籍組6人のうち、攻撃の中心として広島のリーグ連覇に貢献したJ1通算47得点の石原が、Jリーグの実績では抜きん出ていた。スロベニア代表として、ワールドカップ南アフリカ大会で得点を決めたズラタンも、期待の即戦力だった。
そんな中、仙台から獲得した武藤雄樹の前評判はそれほど高くなかった。しかし同じシャドーでポジションを争う石原が、第5節の川崎戦で右ひざ前十字じん帯を損傷し全治6カ月の重傷。武藤は開幕戦以来、2度目の先発を果たした次節の横浜FM戦で初得点を挙げると、短期間のうちにブレークし、チーム5人目のリーグ戦4試合連続ゴールをものにするなど、第1ステージ制覇の立役者となったのだ。
関東大学リーグの強豪、流通経大で宇賀神友弥の1学年後輩。11年に仙台へ加入し、昨季までの4年間でリーグ戦70試合6得点という戦歴は、ごくごく平凡なものだった。
武藤と言われても全く印象が薄くてピンとこなかった。11年から昨季まで浦和と仙台はリーグ戦で8度、ナビスコカップで1度、計9試合で顔を合わせたが、武藤が先発したのは、3トップの右ウイングでフル出場した12年のナビスコ杯だけだ。リーグ戦は途中出場が4試合で、ベンチ入りして出場機会なしとベンチ外が各2試合。シュートは計5本で得点はゼロだった。これではインパクトに欠けるのも仕方ない。
それがどうだろう。横浜FM戦から最終戦まで12試合続けて先発し、シャープな動きだしと切れ味鋭いドリブル、疲れを知らない走力に忠実な守備で浦和の中心選手にのし上がってしまったではないか。仙台時代に4年かかって記録したリーグ戦での6点を、わずか3カ月半で更新する8ゴールをものにした。8点は前半戦のチーム得点王でもある。
8得点のうち4点が同点弾で決勝点も1度ある。押されまくった鹿島戦では後半26分にズラタンの右クロスを頭でねじ込んで同点。初黒星が濃厚だった柏戦では、後半ロスタイムに関根貴大の絶品右クロスから起死回生の同点ヘッド。ステージ優勝へ王手をかけた。新潟戦ではプロになって2度目、浦和では初の1試合2得点をマークした。
好調の要因を聞かれると、「シャドーという役割を理解し、求められている動きだしやポジショニングをうまくこなせていることですかね」と答えた。仙台時代は主に2列目やアウトサイドだったが、シャドーを体得して浦和で才能を開花させた。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督は「私のサッカーに合うし、合うから結果を出せている」と想像以上の活躍ぶりに目を細めた。
仙台でも背番号は19だったが、浦和での19番のほうがはるかに光り輝いている。「これまでは試合に出続けることがなかったので、プレーできていることが幸せです。ピッチに立たせてもらっているのだから、疲れた姿など見せられない」という26歳が第2ステージでも躍動したら、ステージ連覇の可能性が膨らむ。
河野正プロフィール
1960年埼玉県生まれ。84年に埼玉新聞社に入社し、06年に退社するまで運動部でサッカーを担当。三菱自動車時代から浦和レッズの担当記者を務めた。07年からフリーランスとして活動し、専門誌などに寄稿している。