浦和フットボール通信

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浦和と三菱 フットボールの伝承1ー二宮 寛(元三菱重工サッカー部監督)インタビュー

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レッズとホーム浦和の未来に向けて

改めてホーム浦和とレッズの絆が問われている。J屈指の人気クラブは、偶然にこの街に生まれたものではない。そこには幾多の先人たちの思いが重なっている。しかし、浦和と三菱、両者のサッカー履歴を語る人材が少なくなった。日本リーグの名門・三菱重工 (浦和レッズの前身) を初のJSL優勝、天皇杯制覇に導き、後に日本代表監督の立場から、日本サッカー界に変革をもたらし、2015年に「日本サッカー殿堂」入りした二宮寛氏を葉山に訪ねた。インタビュアー/豊田充穂
Photo by Kazuyoshi Shimizu、Yuichi Kabasawa、 ullstein bild(ゲッティ イメージズ)

二宮 寛 Profile
1937年東京生まれ。慶大在学中 の57年に日本代表デビュー(38試 合、14得点)。59年より新三菱重工 (後の三菱重工/浦和レッズの前 身)のFWとして活躍し、67年に同 監督に就任。全盛期にあったドイ ツの名将ヘネス・バイスバイラー に師事し、当時最先端の組織的攻 撃サッカーを完成させ、杉山隆一、 森孝慈、横山謙三、片山洋らのメキ シコ五輪銅メダリストに加え、落合 弘、大仁邦彌、菊川凱夫など新世 代の日本代表の才能を育成した。69年、 東洋工業の連覇を止めてJSL初制覇。71 年に天皇杯、73年度にはJSL・天皇杯の 二冠を獲得し、9シーズンを指揮した「三 菱重工サッカー部」の黄金時代を築く。 クラブとして日本初の南米遠征や若手の 海外留学、選手の待遇改善や人工芝グラウンド、医療チームの設置など国際的 視野に立つ環境整備を実践し、クラブ強 化の側面から日本サッカーの発展を推 進した。76年より日本代表監督に就任。 ドイツ諸クラブでのトレーニング参加に より選手個々のレベルアップを図るなど、 先進的な思考と行動力で欧州プロ仕様 の強化と待遇改善を代表チームに導入。 バイスバイラーとの親交から奥寺康彦 の1FCケルン移籍も実現させるなど、日 本サッカー界の目を世界に開かせた。 2015年8月、サッカー殿堂入り。

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プロの厳しさについて

サッカー界を離れて35年余、今は自身の盟友フランツ・ベッケンバウワーが名づけ親となったコーヒー・ショップ『パッパニーニョ』をとり仕切る日々。そんな二宮氏から浦和へのメッセージを引き出すには時間がかかった。が、「現状も知らずに強化や運営などを語る資格はないが、浦和レッズは清水泰男君や横山君、森君、藤口君ら多くの三菱時代の仲間や後輩たちが関わったクラブ。応援する立場としてなら……」と、率直な未来志向を述べてもらうに至った。

二宮 ― レッズに限らず、現在のJクラブからは育成、指導、強化、それらを総合した長期計画の方針が見えにくいです。例えば私が師事したボルシアメンヘングラードバッハ(以下ボルシアMG)のへネス・バイスバイラー監督の手法を例に話しましょう。彼は教えを乞うなり「指導者を目ざすなら、日常生活から”ありのままの私“を見るべき」とケルンの自宅に私を招き入れ、40日間もの指導を施してくれました。

特に彼が強調したのは「プロの厳しさ」で、「技術・戦術が一流である事は当然。人並み外れた個性も不可欠。それはどんな相手にも通じる絶対的な物でなくてはならず、練習や試合で失敗しながら最後に”自らつかみとる宝物”だ」と、ネッツァーらの選手例を挙げて説明してくれました(*当時のボルシアMGは司令塔ギュンター・ネッツァーを中心に個性的な若手たちが躍動する攻撃型チームで、バイエルンミュンヘンやインテルミラノを大差で破るなど欧州サッカーシーンで話題をさらっていた)。

過失があってもあるべき姿勢で戦うかぎりへネスは選手を非難せず、試合における意外性や個性を浮き彫りにするプレーを高く評価しました。これらの要素を「相手に応じていかに活用するか」をネッツァーと話し合い、ゲームに反映させることがヘネスのシステムに対する考えでした。最大の魅力は「1対1に持ち込む挑戦」「くり返される波状攻撃」「個々を自由に活躍できる場所に置く」等の戦略で、 レベル差はあっても、三菱に採用・応用できるものと考えたのです。

(GERMANY OUT) UEFA-Pokal, Halbfinale, R?ckspiel: FC Twente Enschede - Borussia M?nchengladbach 1:2 - Spielszene, v.l.: Spielf?hrer G?nter Netzer, Herbert Wimmer (beide Gladbach) und Notten (Twente)  (Photo by Horstm?ller/ullstein bild via Getty Images)

ボルシアMGのギュンター・ネッツァー選手

三菱の足跡とドイツサッカーのDNA

二宮 ― ボルシアでの体験を日本に持ち帰り、やがて三菱の全盛期を担うーつのチームカラーに仕上げました。「1対1の強化(杉山のドリブル、片山の守りが見本)」「球際の攻防と攻守の切替えの早さ(森の戦術眼を活かす)」「適材適所の選手配備(落合・菊川のコンバート)」「全員攻擊·全員守備」「回り道せずゴールを目指す波状攻撃」「CK・FKを生かす(杉山のキック精度)」「フィジカル強化」「精神的レベルを下げたプレーの徹底排除」などなど、40年前の作成ながらサッカーが存在する限り通用する戦法と思います。

半世紀以上にわたってドイツサッカーは世界の最先端にあります。その原動力である「個性豊かな若手の育成」「知恵と組織力」「心身両面のタフネス」「正しいマナー」は、彼らのサッカーに流れるDNAです。ドイツサッカー界の父・ゼップ・へルベルガー(54年W杯優勝監督)の愛弟子であるへルムート・シェーン(74年W杯優勝監督)、ヘネス・バイスバイラー、デットマール・クラマーの3人が協力して基礎を築き、ブンデスリーガ設立によって一層強化されて今日まで継承されています。

ブンデスリーガは地域社会に健全に定着することで発展をとげました。多少の移籍加入はあっても主力大半が地元で育った選手で構成され、スポンサーも地域の関連会社が中心です。運営も地元住民が担うので、チーム活性化のためにも〝我らがクラブ″の意識が高揚する。指導者・選手・クラブスタッフは日常的にホームタウン住民との交流を保つのでクラブと街との障壁がなく、深く双方が溶け合っているのです。

プロの指導者は生活指導を通じて人間教育にも深く関っており、事実ヘネスも選手たちと私生活の話をする事も多かった。ゴール設置、芝の手入れ、ライン引きなどのグランド整備作業や休憩時間の会話、ファン(とりわけ子供たち)への対応にも目配りし、選手たちの性格を見極め、指導にも応用していました。ボルシアMGは成長過程にあったが「1点でも多く得点し勝つ」という攻撃姿勢を貫いていたので激戦の連続。

それゆえ若手には居残り練習(スモールゲーム)を課し、「得点の重要性」「役割の認識」「チャンスを必ずものにする」練習を繰り返し、体得させていた。このスモールゲームにはヘネス自身が必ず参加し、そこで培われた力を試合で発散させ、ファンも選手もサッカーの醍醐味を満喫できる構図が成立していたと思います。

観客はゲームの成り行きに一喜一憂しながらも最後には溜飲を下げるし、負け試合でも温かい拍手を送りました。こういう流れを支える原動力は「自由を与えるが規律は厳守」「失敗を恐れずくりかえしチャレンジする」「エゴを排除し結東する」というヘネスの理念であり、ドイツサッカー界に引き継がれているDNAであるといえます。

(GERMANY OUT) Netzer, Guenter *14.09.1944- Fussballer, Unternehmer, Sportkommentator, D- mit Trainer Hennes Weisweiler nach dem Gewinn der Deutschen Meisterschaft von Borussia Moenchengladbach (Photo by Schirner/ullstein bild via Getty Images)

ボルシアMGの黄金期を築いた ギュンター・ネッツァー選手(左) と へネス・バイスバイラー監督(右)

チーム作りには「選手の器」も欠かせない。メキシコ五輪には三菱から片山、杉山、横山、森の4人を送り込みましたが、彼らには特別な思いがあります。彼らに続く育成が課題でしたので、ボルシアMGの研修へ若手選手を順次派遣することになりました。メキシコ組は対象外にしたにも拘わらず、ドイツ帰りの若手たちが〝本場の味”を消化し身に着ける大事な時期に親身の手助けをしてくれたのが他ならぬあの4人でした。

その結果、三菱から代表候補が14名という時代が訪れましたが、当時は石ころだらけだった巣鴨の練習場(現三菱養和クラブ所在地)を先頭きって整備してくれたのもメキシコ組ですよ。「良い選手である前に、良い人間であれ」と言われるが、彼らはそれを体現していた。豊かになる事は結構だが、何でも「あるのが当たり前」の現在の選手たちが心までバブリーになっては、W杯への道も遠のくのではと危惧します。

サッカー放映について

二宮 ー 最近は試合を TV観戦する事が多い。実況を聞きサッカーが少し難しいスポーツになり過ぎていないかと思うのです。そして、細かい情報・理論・データーが池濫しすぎていないだろうかと思う。 理論武装しすぎるとサッカーというスポーツ本来の魅力を見失う危険がある。”パソコンゲーム”の印象がする。欧州や南米ではアナウンサーが我を忘れ興奮し、大声を出す実況を耳にする。でもそれは、サッカーの素朴な醍醐味・機微に触れるプレーに対してで、決して高度な戦術などではない。選手交代時にアナウンサーと解説者が揃ってシステムに付いて沿々と議論したり、ボール支配率や数値を分析する。こんな会話から一般視聴者がサッカーの魅力に取りつかれるのだろうか。最近、元NHKのスポーツ担当アナウンサーだった羽佐間正雄氏とこの点について意見交換する機会があり、思いを一つにした。羽佐間氏は我々以上にサッカーの研究に熱心だったが、決してひけらかさず、視聴者の目線で、分かり易い事に焦点を絞り、 生の声を美声で淡々と伝えていた。本題から外れるが一言お伝えしたい。

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地元に愛され、日本サッカーを牽引するレッズであれ

本誌読者にとってレッズへの貢献にまつわる森孝慈氏の存在は、とりわけ忘れがたいものと思う。最後に岐路に差し掛かる浦和と三菱の未来について応えた二宮氏のコメントをお届けする。

二宮 ― レッズだけの問題ではなく、これは日本サッカー全体の課題と思うので、建設的な意見のひとつとしてお聞きいただきたい。まずゲームにおいて歯がゆく感じるのは「回り道・攻めに緩みが多い」こと。そして「波状攻撃の不足」です。細かなことを言えば、パスの強弱やコースに対する配慮にも神経が行きとどいていない。パスの出し手と受け手の意図が伝わって来ない。勝ち負け以前にレッズのファン、サポーターはこの「不完全燃焼なサッカー」に不満を感じているのではないでしょうか。ボルシアMGの様に、勝敗に関わらず熱い支持を得られるプレースタイルの確立を望みます。

そのようなプレーが実現できるクラブへ脱皮するためには、地域のファンに愛される運営も重要です。森孝慈君は代表選手としての国際経験に加え、引退後はヘネスが監督をしていた時代の1FCケルンで指導者留学も経験していた。ブンデスリーガの運営を体感した彼にとって、地域交流の成果で知られるケルンは「レッズの手本」であったと思います。

ドイツのクラブは地域社会に密着した人々によって運営され、会長・副会長・チームドクターなどの役員は地域の代表者がボランタリーで務めるケースが大半です。スポンサーがチーム運営に入り込む余地はありません。クラブは平素からファンと親密な交流を保って「我らがチーム」の意識を高め、クラブスタッフはみずから地元の住民やファンの要望を受け止め、その度に解決する配慮が必要です。そうすればサポーターの不満の多くを未然に解決することが可能でしょう。

「レッズのDNA」「日本サッカーのDNA」を構築するために、日本人監督の起用も希望したいですね。雌雄を決するような緊迫した重要ゲームで、通訳を通して適切な指示が出せるのでしょうか? 優秀な外国人指導者の助言は必須と思うが、言葉の通じない異文化の指導者に重要決定を委ねることには疑問を感じます。選手の育成には生活指導も含まれる。チーム、クラブを作るためにはファンとの交流、意見交換は欠かせない要素なのです。

私にとって浦和・埼玉のサッカーは特別な存在です。1957年天皇杯に慶應BRB(全慶應)で出場し優勝した舞台が大宮だった。これを契機に19歳で日本代表に選抜されました。また慶應、三菱、日本代表にも埼玉出身のチームメートが多かった。埼玉県サッカー協会会長の横山謙三君は三菱の後任監督。ボルシアMGから学んだ路線を立派に継承・発展させ、レッズ創設へ繋げてくれました。

代表監督当時には各時代を代表する川上信夫、落合弘、西野朗、永井良和君らがいた。これらのサッカー仲間を見わたしても、浦和・埼玉がいかにサッカー熱の高い場所かという事は良く知っています。レッズのホームタウンとして最高の都市と確信しています。それだけに一日も早く「不完全燃焼のサッカー」、「小さな不満が積もってしまう運営」から脱皮して欲しい。日本サッカーの更なる飛躍の先頭に立つクラブになって欲しい。心からそう願っています。

(2016年6月 葉山にて)

神奈川県葉山で営むコーヒーショップ「パッパニーニョ」は、ベッケンバウアーが名付け親となっている。

神奈川県葉山で営むコーヒーショップ「パッパニーニョ」は、ベッケンバウアーが名付け親となっている。

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