浦和フットボール通信

MENU

河合貴子のレッズ魂ここにあり!「プロローグ」(5/13)

J開幕から浦和レッズを追いかけ、ケーブルテレビのパーソナティなどで活躍をしている”タカねえ”こと河合貴子さんによる浦和レッズコラム。毎週、タカねえの独自視点の浦和レッズを語ります。

プロローグ

それは、1992年残暑厳しい夏の終わりの1本の電話で始まった。所属しているアナウンサー事務所のマネージャーから「CATV(ケーブルテレビ)なんだけど、サッカー番組のオーディションがあるから受けて欲しい」と言う内容の電話であった。当時の私は、深夜放送のDJ、TVの番組案内や情報番組のレポーター、ポール牧師匠の下で喜劇舞台などをこなしていた。スポーツキャスターを目指している訳でもないし、ましてやサッカーなんて興味すらなかった。しかし、マネージャーから言われると断り辛く、「取りあえず受けますが・・・やる気は無いです」と答えた。

オーディションで「知っているサッカー選手は?」の問いに、何故か頭に浮かんだ選手の名前が「ペレとベッケンバウアー」。「日本人選手は?」の問いには誰も知らない状態、もちろん「オフサイド」など知る由も無い。それなのに、CATVは私を採用する事に決めてしまったのだ。

こうして、サッカーのサの字も知らなかった私が、CATVの番組を通して「浦和レッズ」と出会う事になった。思えば、私にとって人生を左右する「運命的な出会い」と言っても過言ではない。この出会いによって、サッカーの喜びや楽しさ、悲しみや苦しさ、悔しさを知った。そして、色んな方々との出会いも在った。

今年の夏の終わりで、大原練習場に足を運んで20周年目を迎える。92年当時の森孝慈監督が「河合は感じた事、疑問に思った事をストレートにぶつけて来る。自然体なんだよなぁ。それで良いと思う」と言って下さった事があった。その姿勢は今も変わらないと自負している。このコラムを通して飾りなく自然体のままに「浦和愛」を届けられたらと思う。

さて、今シーズンの浦和レッズは、ペトロビッチ監督を迎え新体制でスタートした。選手時代のペトロビッチ監督と言えば、何事も手を抜かず100%。子供に対して「良く遊び、良く学べ」と言う言葉があるが、ペトロビッチ選手は「良く遊び、良くサッカー」と言う印象がある。

そして、決して忘れてはならない、1999年11月27日 サンフレッチェ広島戦。ゴールが決まらず延長になった時点で浦和レッズのJ2降格が決まってしまう試合にペトロビッチ監督は選手としてピッチに立っていた。延長Vゴールで勝っても降格は変わらない事を知りながらも、歯を食いしばり、涙を堪えて勝利を求めて全力でプレーするペトロビッチ選手がいた。延長後半1分、小野伸二選手のショートコーナーを受けたペトロビッチ選手がゴール前にクロスを入れると、福田正博選手がボールを押し込み、悲しい勝利の笛が駒場スタジアムに鳴り響いた。ゴールが決まった瞬間、ペトロビッチ選手はピッチに泣き崩れた。その姿だけで、胸が締め付けられる程ペトロビッチ選手の思いが伝わって来た。どんな状況でも最後まで全力を出し切り、勝利に拘り、決して諦めずプレーするのが、現役時代のペトロビッチ監督であり、その姿勢は監督になってからも変わらない。浦和レッズの苦しい時代を支えた男であり、何よりも浦和を愛している男、それがペトロビッチ監督だ。浦和レッズに浦和の魂が戻って来たと感じられる。

長いシーズンを闘う中で、良い試合も悪い試合もあるだろう。ペトロビッチ監督は「選手が100%力を出し切って負けたとしたら満足だ。だが、一人でも力を出し切らない選手がいたら、許さない」と話す。浦和の誇りと魂を持ったペトロビッチ監督と共に闘おう!!

パートナーサイト

ページ先頭へ