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「我が街のクラブは誰のものか? これからのJクラブのあるべき姿」村井 満(前Jリーグチェアマン)インタビュー

2014年に第5代のJリーグチェアマンに就任して、規約上の最長任期である4期8年の間、チェアマンを務めた村井満氏。Jリーグ存続の危機の状況で大役を引き受け、DAZNとの大型契約で状況回復。その他にも様々な施策で土台を築いた。困難を極めたコロナ禍での運営でもリーダーシップを発揮した。この8年の活動を振り返り、これからのJクラブのあるべき姿について訊いた。(浦和フットボール通信編集部)

Interview & Text by 椛沢佑一 Photo by 清水和良、椛沢佑一

求められたリーグ財政悪化の立て直し

UF:チェアマンに就任した時は、リーグ存続の危機と言われるぐらいの財政状況が厳しい中で、2ステージ制を導入することになり、レッズサポーターからも大クレームが起きた頃でした。

村井:サポーターは本当に自分事としてクラブに向き合っていて、勝ち点の重みを身に染みて分かっている。生活をかけてチームに帯同してるような人たちからすれば、年間勝ち点とは違う数日で王者が決まるのはどういうことなんだと。サッカーに本気で向き合っていれば、向き合っているほど、そういう議論が出て当たり前だったと思います。

UF:しかし2ステージ制を導入せざるを得ない状況がリーグにはありました。村井さんはリーグの財政建て直しを期待されて就任したということが大きかったのではないでしょうか。

村井:チェアマン就任以前からJリーグは財政的に困窮をしていた状況で、慢性的な赤字でした。その起死回生のカンフル剤として、2ステージ制を導入しようという議論がチェアマン就任前の理事会でされました。リーグは背に腹をかえられない状況で、最終的には導入の方向になりました。慎重に対応すべきだという姿勢だった自分が、今度はチェアマンになってしまい、2ステージ制を実施する側になった。財政的な問題でこのような大会方式を採らざるを得ないのであるならば、財政を立て直して早く健全な状況の大会方式に戻そうと腹を括りました。財政が悪くなる前提は顧客が離れているということ。入場者数が減れば、スポンサーもグッズ販売や様々な副次的な収入も減る。サッカーを盛り上げていくことで、財政を立て直して大会方式を元に戻すことが就任した時の覚悟でした。最終的には4年契約の2ステージ制を2年で撤回することができた。これはDAZNとの契約ができたことが大きくて、財政的には元の形以上に戻すことができました。

UF:DAZNとの大型契約が状況を一気に変えたということですが、この契約の背景はどのようなものがあったのでしょうか。

村井:チェアマンに就任した年にアジア戦略のためにミャンマーに訪れた時に、DAZNを運営するパフォーム社の人間と初めて会いました。そこから縁が始まり、具体的な話になったのはスカパー!との優先交渉権が切れて、再度パフォーム社の人間と会うことになってからです。そして2016年にはDAZNとの契約が決まり、2017年から配信開始になりました。その時は世界のどこもプロリーグのネット配信をしておらず、何の実績もなかった。ただスポーツは結果を知ってから見るのでは面白くなくて、同時進行の人間ドラマを味わうこと以上にその喜びはない。いつでもどこでも見られるネット配信が必ず市場になるという確信を持っていました。世界が必ずそうなるのであれば、巨額な放映権を用意するのは大変だろうから日本で実践して、そこから海外の配信にステップを踏んだら良いのではないかと私もDAZNもそう思っていました。

UF:10年間2100億円の大型契約は、当時話題になりました。

村井:その巨額な放映料などが話題になっていますが、本質は全試合の制作をJリーグが行うことに大きなポイントがあった。今まではテレビ局によって撮り方が違っていましたが、視聴習慣を作るためには、映像ブランドを統一することが絶対に必要だったので、すべてJリーグがコストをかけて撮ることにしました。そして今はJリーグの基本の撮り方がどの試合にもあり、これがJリーグだというブランドが定着しつつある。また、これからJリーグが話題になるためにはネットにどんどん露出していく必要があった。それを考えた時に一番こだわったのは制作著作権を自分たちが持つことでした。それを持つことによって、ネット配信やニュースへの分岐も自分たちの判断で出来るようになり、話題作りを拡散できるようになった。あとはユニフォームの背番号フォントを全クラブ統一にした。これは大反対にも遭ったのですが、スマホでサッカーを見る時代になって、高画質の大きい画面で見るのと違って、日の光を浴びたり、振動したりしている電車の中で見たりする時に、この選手が誰ということが分からないとサッカーへの関心を持つ入り口に繋がらない。だから全クラブのユニフォームフォントを統一して、ユニフォームの色と番号の色の組み合わせのパターンもユニバーサルデザインで色覚に特徴がある人も見られるようにしました。これは自分達で中継制作をすることによって、生まれた発想でもありました。

UF:この後、Jリーグも平均入場者数が伸びてきて、コロナ禍前の2019年には総入場者数も最多の数となりました。これはそのような施策が効いてきていたのでしょうか。

村井:それと同時にクラブのデジタルプラットフォームを作りました。それまでクラブはそれぞれが重複投資していた。それをJリーグがホストとなり、クラブに土管を通して自動的にすべてのデータが更新されるようにしました。オンラインストア、チケッティング、マーケティングからファンサービスと、ありとあらゆる物を高速パイプラインでリーグと通して、そこに著作権を持つDAZNの映像を自由に使えるようにした。これによってクラブのコミュニケーションレベルが上がっていき、個人情報などのセキュリティーに対しても安心になった。そういう意味では飛躍的にデジタル環境がリーグ全体で上がった。そのような投資も行った。今まで全て試合に来る人も初めて来た人も対応が同じだったが、JリーグIDという個人データを管理して、様々な便宜を図れるようにした。このIDは200万人ぐらいのデータがたまってきています。その取り組みはクラブによって若干格差ありますが、成功してるクラブは飛躍的に顧客とのエンゲージメントを深めたと思います。

UF:サッカーを盛り上げるという上で、ビジネス的なベースを築いてきたということですね。

村井:フットボールかビジネスかという二元論の議論になってしまうことがあるけれども、本当にフットボールのレベルを上げようと思ったら、選手人件費を一定確保しなければ選手も獲れない。うちはサッカーが本業でビジネスは関係ないといっていると、フットボールそのものの地盤沈下を招く。フットボールのレベルを上げながら、ファンサービスをしっかりやって、顧客をクラブに引きつけながらその利益を現場に投資していく。その循環が必要になってくると思います。

Jリーグの理念は浦和が示せ

UF:村井さんはチェアマンになる前に、浦和のスタンドに掲げられた「Jリーグの理念は浦和が示せ」というサポーターの旗を見て、浦和で「Jリーグの理念を実現する市民の会」を立ち上げました。だからこそチェアマンになってからもJリーグの理念をベースにした活動を意識していたのではないでしょうか。

村井:私がチェアマンになるきっかけは「Jリーグの理念を実現する市民の会」であることは間違いない。まだ社外理事としてJリーグの理事会に参加していた時に、スタジアムでその幕を見て、自分が住んでる浦和という街がJリーグの理念を一番日本で深く研究している街にしようと考えました。そして近所の仲間やクラブを浦和に誘致することに貢献された方などを集めて、夜な夜な浦和で打ち合わせをしました。ソシオの研究やブンデスリーガーの研究をしたりして、その中でJリーグ創始者である川淵三郎さんにも浦和で講演して頂いた。そして講演後に一カ月ぐらいかけて、その講演録をテープ起こしで全部書き起こしました。これはある意味、写経でもするかのようにJリーグの理念を念仏のように筆記した。その時に一字一句何回も繰り返して考えて想像していたから、Jリーグの理念は何かをもっとも深く議論できる人間のひとりになっていたのだと思います。講演録は川淵さんにもお見せしたら非常に喜んでくれました。

UF:リーグ初優勝した2007年が最高の盛り上だったと思いますが、その浦和が、今後どのようにクラブと共に盛り上がっていくかという話もしていたかと思います。

村井:浦和という街は、市民やサポーターの熱量がとても高い。本当にクラブの経営執行までやる必要はないけれども、市民が本当のオーナーシップを持ってクラブに向き合う所までいけたら良いのではないかというのがあの頃でした。長い年月はかかるけども地域に根ざしたクラブ作りがJリーグの本質だとすると、名実ともにクラブ愛をどういう形で表現するかは、浦和は考え続けなければいけない所なんだろうと思います。もっとホームタウンでの日常の生活の中にサッカーが溶け込んでくるような街でありたい。全国を回ってきて、そういう感じでは浦和は良い街ではあるけれども、もうひと努力が必要ではないかと感じました。街そのものがスタジアムから遠いので、この街が自分事化するような感覚からちょっと距離感が出ている気がします。昔は、駒場での試合終わった後に、浦和郵便局のあたりで車座になってビールを運び、もつ煮込み盛り付けて、飲んだり食べたりしていた。あの頃に比べるとおらが町のクラブという感覚が薄れているのかもしれないですね。

UF:改めて外から見た時に、浦和という街をどのように感じていますか。

村井:間違いなくレッズというだけではなく高校サッカーも含めて、サッカーの街という意識がすごくある。浦和4校が全国優勝したり、プロクラブに行くような選手、レフェリー、協会関係者だったり、浦和から輩出される人材から発信されるサッカーのメッセージは、日本の中で一つの発信源であったのは間違いないし、未だにそういうブランドがあると思います。浦和という街がサッカーの街であることが原点であって、この街でサッカーを楽しむ人がもっと増えたり、日常生活の中にサッカーがもっと溶け込む。施設整備がもっと進む。みんながボールを蹴られるようになる。子供達が生まれたら、サッカーボールが届けられる。本当にサッカーが身近な街になってほしい。浦和はその一番の筆頭候補。その中の要素の一つにレッズがあるという感覚なのかもしれません。

UF:浦和レッズの場合は入場者数を増やすことで日本でも最大のクラブになったと思いますが、コロナになると入場制限などがあり、逆にレッズが一番打撃を受けることになったクラブなのではないかと思います。全国にはJリーグクラブは58クラブも出来て、色々な取り組みをしている。すべてのクラブを村井さんは見てきたと思いますが、浦和に参考になりそうな取り組みなどはありましたか。

村井:入場料収入の絶対額が他クラブに比べて高いので、コロナ禍での直接的影響が非常に受けたのは浦和ではあると思います。それから収入構造だけではなく、ブランディングとしても、あの熱量そのものが魅力だから、そういう意味では直接観戦ができない所での顧客体験が低下したのも大きな影響だと思います。ただ、コロナ禍おいてスタジアムでの観戦を軸とした戦略面で大きく飛び抜けて目立ったクラブがあるかと言われるとそうでもないので、むしろ、これから失った部分をどうやってリカバリーしていくかということになるのではないかと思います。

UF:今後、どのような施策をしていくかが各クラブ問われる所になりますね。

村井:浦和サポーターも高齢化が顕著ではないかと思いますが、若い子達がどんどん入ってくるかが将来を決める。日本全体が高齢化していて、子供の数が減少している中でも相対的に子供にリーチしようと本当に愚直にやっているのはフロンターレ。良い悪いは別にして、彼らは縁日をずっとやっている。プロレスをやったり、お相撲さんがパフォーマンスしたり。それはマスコットをピッチ上には立たせない、浦和では考えられないような取り組みではあるけれども、サッカーに愚直に向き合う姿勢とサッカー以外でのエンターテイメントなどとの両面に対しても本気で取り組もうとする。幅広いお客さんに喜んでもらうという面ではクラブ格差が随分と出ている。埼スタだと南広場などで、色々なイベントを楽しんでもらって、スタジアムの中はヒリヒリするような劇場に変わる。それで良いと思います。周辺も含めたエンターテイメントと、どう向き合うかは、クラブ差が出てきているかもしれません。

UF:チェアマン就任してすぐに浦和レッズへの無観客試合裁定もありました。

村井:私が1月31日付でチェアマンに就任して、リーグが開幕して第2節の鳥栖戦で起きた出来事でした。私はスタジアムにいませんでしたが、「JAPANESE ONLY」という横断幕が出たとすぐに報告がきて、これはダメだと思いました。Jリーグ規約の中にある懲罰という処分の一つに無観客試合が入っているわけで、サッカーにとってサポーターと切り離すことは制裁処分なんだということ。選手もエネルギーは湧かないし、当然入場者がいなければスポンサーにも迷惑がかかる。逆に言うとサポーターと切り離すぐらい絶対やってはいけないことがあるというのが、あの時に示した判断でした。私も新米でしたが、レッズの淵田社長(当時)も就任したばかりで、最初のホームゲームだったと思いますが、これは相当まずいぞという話をした。淵田さんも色々とビジネスをしてきて様々な見識がある方なので理解をしてくれた。このようなことを日本から差別を無くしていこうと彼と歩調が合った。2週間後にはすぐに清水戦が入っていて、このままだと大問題になるということもあり、わずか1週間での無観客裁定に至った。サッカーが差別に溢れているわけではなく、日本社会がそういうことに鈍感だった。サッカーは常に世界と共にある競技で、外国籍選手・監督がいたり、W杯やクラブW杯を開催したりする。世界と非常に近い所にいつも位置する競技なので、こういう問題に関してはすごくセンシティブで問題が露見しやすい。だから、サッカーからこのようなことを無くしていこうと淵田さんたちと話をしていました。

コロナ禍でもサポーターと共に

UF:チェアマンとして最後の時期は、コロナ禍となり、リーグ運営においても苦労が絶えなかったと想像します。

村井:最初に私が試合中断した時は、政府からの試合中止要請がないタイミングで、中止決定する前の夜に専門家が「この1、2週間が瀬戸際だ」という談話を発表した。その時、総理はまだ中止要請は出していなかった。ただ1月の上海でのACLのプレーオフは無観客試合で開催するという情報を得ていました。まだ日本国内の感染者数が確か4名の頃でした。香港、上海中国一帯で事業している知り合いがいたので、情報を取ると無観客試合を中国がやるのは相当なことで、今回は相当、気をつけた方がいいよという話が入っていた。その時に「瀬戸際」という言葉が出てきたので、その翌日に全クラブの社長を集めて、Jリーグは2週間の中断を決定した。瀬戸際が1、2週間と言ったので、2週間の中断という決断をしたけれども、結局そこから4ヶ月間の中断になってしまった。Jリーグが大規模イベントとしては初めて中断決定をした後に、政府は大規模イベントの中止要請をしたり、全国の学校の休校要請を出したりと、あの頃は本当に誰も先が分からない状況でした。

UF:中断した後に再開した試合では、無観客での試合開催もありました。

村井:実はJリーグ2年間にわたって有観客試合の比率は96%。無観客は最初の2週間ぐらいで4%でしかない。とにかくお客様と共にやることだけ腹を決めて、それができる前提でコロナ対策ガイドラインを作っていきました。サッカー文化を作ろうという時に、文化は選手やクラブだけが作るものではない。サポーターたちが生活の中で、サッカーと融合していく中で文化ができるわけだから、サポーター抜きで選手だけがサッカーをやるだけでは文化を作れない。ここは本当にこだわった部分です。一部、色々と問題はあったけど、総じて本当にみんながよくこらえてサッカーを守ってくれたと思います。

UF:今、声出し応援をどうするかという話まできていますが、これはJリーグだけが方針を勝手に決められないという立場であるわけですよね。

村井:Jリーグ58クラブの中でクラブがスタジアム所有をしているのは3クラブだけです。大半が行政所有になっている。コロナは第2類の感染症分類なので、各都道府県にある市区町村管括の保健所が管理することを義務付けられている。いわゆるこの対策は、各都道府県の知事が実質的なコントロール機能を持っているので、危険なまん延防止法適用などの時にスタジアムの使用条件の意思決定は、スタジアム所有をしている側の判断に従わざるを得ない。そこにリーグで決めることができない問題が存在しています。逆にいうと試合を有観客で試合をさせて頂けるように、僕らはガイドラインを作り、厳格な自己管理をしていることを説明して開催まで漕ぎ着けています。相当、イレギュラーのことを認めて頂いている裏側にはJリーグだけがスタジアムを使っているわけではないというポイントも踏まえないといけません。

UF:その中でいかにサッカーの熱狂を取り戻すかという問題があります。

村井:やはりサッカーの醍醐味は声を出して、選手だけが演じるだけではなくてサポーターも空気や環境を作るのがサッカーなので、それに向けた努力はずっとやっています。ただ、それには社会の理解がないとできない。都道府県によっても判断が違う。国によっても判断が違う。これはある種、社会的コンセンサスの象徴的なケース。日本のそういう社会的な全体のコンセンサスを見ずして、スタジアムだけ見るとそれはずれてしまいます。Jリーグも最初は太鼓も旗も禁止しました。しかし議論していきながら、問題ないと思うものはどんどん解禁してきた。2週間に1回、コロナ対策ガイドラインを更新していたので、もう第40版近くまできている。その最後が声出し応援になってきているということかと思います。

Jクラブは各地のアイデンティティーに

UF:そんな中でチェアマンになり、Jリーグの魅力を改めてどう感じましたか。

村井:今、Jリーグは全国に58のクラブがあって、各地域でクラブを通じて若者がサッカーや様々なスポーツを楽しんでします。サッカークラブが街のシンボルになり、その姿を地域の人々に見せることで、活力を与えているのは間違いない。人口減少、高齢化、シャッター通りの増加など、地域のアイデンティティーを喪失するような課題を前にクラブは奮闘しています。この58クラブがプラットフォームとなり社会のために活動しようとシャレン!(社会連携活動)を一斉に展開すると、すごい影響力があります。今はサステナビリティ、ESG投資という言葉があるように、永続的に発展していくために環境や地域社会との連携が大事だと言っているけれども、Jリーグは始まった当時からJリーグ百年構想と言っていたわけです。改めてこの地域に根ざす、もしくは身体、汗をかいてフェアに戦っていく。このような存在が子供の教育だったり地域の活性化だったり、それは今でこそ本当に欠かせないものになってきた。クラブは本当に地域の公共財で、浦和レッズもこの浦和の街に本当に欠かせない存在になっている。だからこそ、もっと地域の人たちがクラブに関わって、クラブを通じて街づくりやホームタウンに関して皆が関われるようなそんな存在になってほしいと思います。

UF:全国各地でJクラブが街のアイデンティティーになっていくことが存在価値になりますね。

村井:地域とクラブのアイデンティティーは何かという議論が始まっています。ブラブリッツ秋田は1年のうち3ヶ月ぐらいが雪の中になる。その間、皆が耐えて耐え抜くけれども、短い夏になると一気呵成に大曲の花火や竿灯まつりなどがあって盛り上がる。これが秋田だから、サッカーは守る時はしっかり耐えて、チャンスになったら皆で行こうじゃないか!という地域に対するアイデンティティーとクラブが目指すサッカーのコンセンサスがしっかりあるとJ2昇格までのエネルギーを生むことがある。今、全クラブが育成哲学の言語化をしようということで、Project DNAという取り組みをやっています。監督やGMが替わるとサッカーが変わる。毎回、積み上げたものを崩してもう1回作り直すことはやめようと。僕たちの街はこういう街だから、このようなサッカーでこういう監督を呼び、こういう子供達の育て方をするんだと。普遍のクラブ哲学は何ですか?ということが、問われる時期に来ています。浦和といえばこういうサッカーだということを、みんなが分かるように説明していってもらったら良いと思います。

UF:最後にJリーグに繋いで行ってもらいたい思いは?

村井:もう任すと決めたので任すだけですが(笑)。リーグで働く職員たちもクラブの実行委員の意識も変わってきた。クラブ経営のレベルも上がってきていて、土台はある程度できたので、失うものはないから伸び伸びとやってもらって、クラブワールドカップで優勝するんだというぐらいのクラブ作りをしてほしい。あとは育成でしっかりと移籍金が取れるようになってほしい。Project DNAでは2030年までに世界で育成力のトップランクを目指すための工程表まで全部作ってやっています。そういう時間がかかることも逃げずにやってもらいたいと思います。

(2022年5月さいたま市内にて)



村井 満 Mitsuru MURAI プロフィール

1959年埼玉県生まれ。浦和高校、早稲田大学を卒業後、日本リクルートセンター(現リクルートホールディングス)に入社。リクルートエージェント、RGD Hong Kong Limited社長を歴任。2008年からJリーグの非常勤理事に。2014年に第5代Jリーグチェアマンに就任。2022年3月に退任した。

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