浦和フットボール通信

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VIPインタビュー:橋本光夫代表 公開インタビュー全文(2)

ホーム浦和と浦和レッズが膝を交えての交流を図る「URAWA TOWN MEETING」の第1回が、さる3月7日夜に『酒蔵力本店』にて開催されました。本誌は会の開催主旨と橋本光夫代表の発言の重要性に鑑み、その議事録全文を2週(2号)にわたり無料配信にて公開いたします。(浦和フットボール通信編集長・椛沢佑一)

第1回 ~2012年の浦和レッズについて~
参加者:橋本光夫代表、畑中隆一本部長、松本浩明広報部長
司会:椛沢佑一、豊田充穂

豊田:私が担当するここからの時間は、橋本代表の履歴と素顔に迫るコーナーとしたいと思います。冒頭のお話にもあった通り、この2年間、橋本代表がこの様な舞台でレッズサポーターと膝を突き合わせるチャンスがありませんでした。私自身が持つ印象なのですが、こういう経緯によっていっそう「橋本代表はサッカーの素人」「フットボールクラブのトップというより経営者」というイメージがホームタウンに染み付いてしまっているように感じます。

橋本:本意ではないのですが、そういう面はあったかも知れません。

豊田:例えばサポーターの間で交わされている評判の中に「代表はサッカーよりもラグビーの人間」というものがあります。しかし私はホーム浦和が本来的に持っているスポーツへのポテンシャルを考えれば、サッカーとラグビーという違いはそこまでの問題にはならないと考えるのです。ここはひとつ、橋本代表がラグビーを通じて身につけられているはずのスポーツマインドをお聞きし、レッズサポーターの皆さんが持つスポーツマインドとの共有部分を深めて行こうと考えるのですが、いかがでしょう?

橋本:それはありがとうございます。

豊田:キーワードは“国立競技場”です。今夜「力」にお集りいただいたサポーターの方々は高年齢の方も多い。実は私もそうなのですが、URAWAのスポーツマインドは「ラグビーと無縁」とは思えない部分が多いと思います。昔からホーム浦和のスポーツファンの中には「元旦は国立で天皇杯の決勝を観て、成人の日(1月15日)は同じ国立でラクビー日本一を決める全日本選手権に行く」という人が少なからずいましたから。実際に橋本代表の就任が決まった際には、私の周辺のオールドファンは「国立でプレーした、あの自工京都の選手だった人なんだって」等の話題で大いに盛り上がりました。

橋本:ほほう、そうですか。(照れくさそうな笑顔)

豊田:そもそも橋本代表のラグビー経歴は、新潟工の主力として国体で全国制覇された時から始まっていますよね。

橋本:はい、そうです。

豊田:しかもその国体は、ここ埼玉で開催された埼玉国体でした。そこで代表に伺いたい。橋本代表の青春時代の思い出の地は、ここ埼玉にある……そういうことでよろしいでしょうか?

橋本:(笑いながら)その通りですね。その埼玉国体の少し前の時期に東京オリンピックがあったのですが、同年の国体は(私の故郷である)新潟開催だったのです。その際に(地元開催ということもあり)日体大OBの指導者などを集めて競技の強化を進める動きになりました。私が入部した時の新潟工業監督も、国体のために地元に就任された方でした。新潟国体開催前には市内大会でも優勝したことがなかった母校の隆盛期にラグビーにかかわることができたことは幸せだったと思っております。

豊田:なるほど。で、その後の橋本代表のキャリアを追っていくと、実は代表のラグビー歴はなんとも奇妙な機縁でホーム浦和と三菱のサッカー史に繋がっていることが分かるのです。
(年表のボードを取り出す)
その不思議な関連をお見せするために、今日は「橋本年表」なる橋本代表の歴史をたどる年表を作って参りましたのでご覧ください。

橋本:それはどうも。(ボードに見入る)

豊田:年表上部の期間は、橋本代表の現役時代全盛期です。年代でいうと1967年から1975年まで。いかがでしょう、この時間帯は代表の人生の中でも、最も熱い時代だったのではないでしょうか?

橋本:おっしゃる通りですね。自分のラグビー人生まっさかりの時代です。

豊田:順番に伺います。橋本代表が初の全国制覇を経験されたのは埼玉国体。ラグビーの王者は代表率いる新潟工業高校でしたが、さて、この国体でサッカーの王者となった高校はどこの代表校であったかご記憶ですか?

橋本:すみません、ちょっと記憶にない……。

豊田:この大会のサッカー優勝校は我らが浦和南高校です。あの「赤き血のイレブン」が初の全国制覇を果たした大会が、同じ1967年の埼玉国体だったわけですね。

橋本:そうでしたか。いや、それは知りませんでした。

豊田:翌1968年、橋本代表は新潟工高を卒業し三菱重工に入社されます。ちょうどメキシコ五輪で日本がアジア勢初の銅メダルを獲得した年で、サッカー界が偉業達成に沸いているさなかでした。橋本代表が入社された三菱重工は、この栄えある五輪代表に森孝慈、杉山隆一、横山謙三、片山洋という4人のメンバーを送り込んでいます。

橋本:なるほど……(感慨ぶかそうに年表に見入る)。当時から三菱はサッカーには非常に力を入れておりましてね。サッカー部は東京本社に拠点を据えていて、京都工場だけでメンバーを構成していた私たち(ラグビー部)とはまったく違う立場というか環境にありました。私が在籍した京都のほかに名古屋、水島にもサッカー部があったのですが、優秀選手の何人かが重工サッカー部に籍を置くために東京に転勤を命じられるという情況だった。私が京都ラグビー部で過ごした時間帯で、京都から東京本社のサッカー部に行くことができた人材は一人だけであったと記憶しています。ラグビー部の間でも話題になったくらいの画期的な出来事でしたから。

豊田:国技ならぬ社技。エリート集団だったということでしょうか?

橋本:そう思いますね。サッカー部には岡野さんというサッカー部の育ての親とも言える幹部もおられましたから、別格の存在でした。

豊田:三菱重工サッカー部初代監督、元三菱自動車会長の岡野良定さんですね。

橋本:そうそう。岡野さんはサッカーだけではなく三菱グループ全体のスポーツを強力にバックアップされた方でした。私たち自工京都ラグビー部も花園のスタンドにまで応援に来て下さったことを憶えています。

豊田:その三菱が誇るサッカー部なのですが、代表が入社された翌年の69年に日本サッカー史に残る偉業を達成します。浦和レッズの前身チームとしても歴史的な栄冠なのですが、橋本代表はそれをご記憶ですか?

橋本:いいえ。(戸惑った表情)

豊田:創設から5年目を迎えた日本サッカーリーグで初優勝を果たしたのです。この年までは東洋工業サッカー部(広島)の4連覇が続いていましたから、これは日本サッカーのトップリーグにおいて東日本勢が初の王座を獲得するという快挙でした。しかも優勝を決める数試合においてのゲームキャプテンは浦和出身のメキシコ五輪銅メダリスト・横山謙三さん。リーグ得点王は、これまた浦和出身のストライカーだった落合弘さんでした。

1969年、三菱重工サッカー部JFL初制覇の際に書かれたメンバーのサイン色紙が貴重資料として力に展示されています。

橋本:すみません、そのあたりの経緯は全く存じませんでした。

豊田:いいえ、結構です。非常に古く、マニアックな歴史ですから(笑)……。ただ橋本代表にお伝えしたいのは、当時から三菱と浦和は強いサッカーの絆で結ばれ、日本サッカーの王座に君臨し、サッカー界への大きな貢献も果たしていたという事実です。余談ながら、橋本代表とともに埼玉国体で優勝した浦和南高校は、この69年に高校サッカー史上初めての三冠王制覇を達成しています。つまり当時の私たちURAWAのサッカー愛好者は、聖地・国立競技場においては郷土の名手が率いる三菱重工の大活躍を観て、URAWAに戻れば高校三冠王の「赤き血のイレブン」の存在を感じることができた。非常に幸福な時代でした。

橋本:なるほど。私も旧浦和市の4つの高校が全国制覇を果たされていることは記憶していたのですが……。ホーム浦和と三菱の詳しいサッカー史、この場で深く認識させてもらいました。

豊田:心の片隅でも結構です。憶えておいていただければと思います。

橋本:了解しました。

豊田:さて、三菱が日本サッカーの頂点を極めた後は、橋本代表率いる三菱自工京都が全国制覇を果たす番です。(年表を指しながら) 71年と75年の全国社会人ラグビーにおける優勝ですね。ちなみに71年は初制覇。自工京都は長いラグビー史の中でも、橋本代表が在籍されていたこの2回しか全国制覇を果たせていません。

橋本:結果的にはそうですね。71年の時は、私はまだ二十歳過ぎの駆け出しの若手。絶対的な主力だった横井さん(章氏・当時ラグビー日本代表CTB)らの力で勝たせていただいたようなものです。

豊田:そして、これも不思議なのですが……。橋本代表ら三菱自工京都フィフティーンが初の栄冠を手にした1週間前、つまり1971年元旦には、三菱重工サッカー部は悲願の天皇杯初制覇を達成しています。

橋本:本当にめぐり合わせですね、それは(笑)。

豊田:では最強時代の自工京都、そのトレーニングはどのようなものでしたか?

橋本:(本社に籍があった)サッカー部とは相当に異なる環境だったと思います。アマチュアそのものの社会人の部活ですから。毎日19時まで2時間の残業が終わってから工場内グラウンドで練習。21時過ぎに寮に帰って食事して就寝、また翌朝からは仕事という生活です。活動費は自分たちで給料から毎月1万円ずつを貯金して6万円を関東の大学との練習遠征費に、残りの6万円を夏の合宿費に当てる。そんな活動でした。当然のことですが、プロクラブである現在の浦和レッズとは比較にもならないトレーニング環境であったと思います。

豊田:なるほど。ただ、当時の主力選手であった横山謙三さんや森孝慈さんのインタビュー談話によれば、サッカー部も大差はないアマチュアそのものの情況。豊富に開催された国際試合や海外遠征を除けば、ほとんど同じような環境下で闘っていた時代であったそうです。

橋本:ああ、そうですかねえ。時代を考えれば、そういうことかも知れません。

豊田:そして75年の社会人ラグビー制覇の栄冠から1週間後。橋本代表は満員の国立競技場で、ラグビー界のスター・松尾雄治さん(元新日鉄釜石 ラグビー日本代表SO)を擁する大学ナンバーワンの明治大学とラグビー日本一を賭けて対戦します。

橋本:はい、そうでした。

豊田:発表された国立競技場の有料入場者数は5万人超。(当時のラグビー全日本選手権の写真ボードを掲げながら) ご覧の通り、当時はサッカーよりもラグビーの入場の方が多かったわけです。ですが橋本代表、このような歴史認識はレッズの支持者なら、わきまえている方たちも多いと思いますよ。
(店内客席に向かって)皆さんは国立競技場でサッカーを観たことは当然にあると思うのですが、国立競技場でラグビーを観たこともあるという方、いらしたら手を挙げていただけますか? (4~5人の手が挙がる)

橋本:(会場を見渡しながら)ああ、本当だ……。

豊田:橋本代表に申し上げます。実は私、この試合を国立のスタンドにて観戦しておりました。

橋本:それはどうも。

豊田:率直にいえば会場は松尾選手人気もあってか、明治大学の応援の方が優勢でした。そしてこれも事実なのですが、私は心ひそかに橋本代表以下の自工京都を応援していたのです。

橋本:ありがとう(微笑で会釈)。

豊田:理由もはっきりしています。自工京都が、橋本代表のような高卒の若手選手を自前で育てたフィフティーンで戦うチームであったからです。明治や早稲田OBのスター選手を集め、代表選手ばかりのラインナップを誇る神戸製鋼やリコーとは異質だった。私は当時からスター選手ばかりを集めた軍団よりも、育成型で手づくりのラインナップをそろえる自工京都のようなチームが好きだったのです。

橋本:(回想をめぐらせる仕草)はい、私たちはそういうチームでした。三菱に入社した年はそもそも部員が少なく、高校から入ったばかりの私も含めた5人がいないとチームが作れないという状態。全日本のキャプテンも務めた横井さんに鍛えてもらい、あの場所まで行けたということと思います。ただ私にとっては……この試合は思い出したくないというか、思い出せもしない試合なのです。相手選手と激突して脳震盪を起こし、ゲーム途中に退場。以後の記憶がほとんどありません。

豊田:(驚いて)そうだったのですか……。

橋本:松尾君にコーナー付近からの何十ヤードという距離があるペナルティキックを次々と決められて……自分が不在の中で負けてしまった印象だけが残っているゲームですね。

豊田:橋本代表にとってのあの国立の一戦の意味が良く理解できました。しかし、その後も橋本代表以下の自工京都は、タイトルこそ取れなかったものの社会人ラグビーの強豪として君臨します。個人的にはスポーツのひとつの大きな功績を残されたと思います。

橋本:はい。

豊田:自工京都の本拠地である京都府は、知る人ぞ知る“ラグビーどころ”ですね。JFAの理事も務めたことがある元ラグビー日本代表監督の平尾誠二さんを輩出した同志社大学があり、その後の高校ラグビー界の名門となる伏見工業高校の活躍もありました。

橋本:そうですね。数々の名選手と指導者を育てた、ラグビーの盛んなエリアであると思います。

豊田:ただ、そんな地元のラグビー文化を長く継承する象徴ともなった自工京都ラグビー部は、その後に悲しい運命を迎えることになります。(再び年表を指しながら)これまた不思議きわまりない機縁なのですが……。我らが浦和レッズが初タイトルのナビスコ杯を獲得した2003年。その年に橋本代表らの活躍で歴史を紡いで来た自工京都ラグビー部は、突然の決定事項により消滅してしまいます。

橋本:はい。そうでした。

豊田:代表にとってもつらい出来事だったと拝察します。その知らせを聞いた時の率直な印象を聞かせてください。

橋本:三菱自動車の経営が厳しくなり、外資の参入もあって部員の半分くらいが系列会社に異動となる事態が起こりました。メンバーが揃わずチーム存在が難しくなり、クラブチームでの活動に変わってしまった。自分の時代は自分の身銭と時間を割いて、自分のためにラグビーをやる気持ちでしたが、このような母体組織の環境変化によってプレーが出来なくなる現役の選手諸君はきわめて気の毒と感じました。ただ、それ以上の思いをもっても仕方ないという思いがあったことも事実です。私が浦和レッズに来る前の2008年前後には本社経営も立て直される傾向があったので、京都事業所には何かのスポーツをやらせてあげたい。出来ればラグビーを……と考え、自分の立場で可能な限りの「復活に向けて」の活動に携わった記憶があります。

豊田:橋本代表ご自身のスポーツへの思いが伝わるエピソードと思います。では改めてお伺いします。ひとつの企業の決定によって、受け継がれてきたスポーツ文化が大きく変わってしまう。運命を変えられてしまうという事態に対しての代表のお考えをお聞かせください。個人的な見解で結構です。そのようなケースでの組織責任の重要性についてどのようにお考えかを伺いたいと思います。

橋本:はい。お応えします。プロのチームとアマチュアの企業スポーツでは、置かれている立場がまったく異なっていることはご存知の通りです。アマチュアスポーツの企業傘下としての制約は受けることはある程度は甘んじて受けなければならない物でしょう。しかしプロクラブである浦和レッズは、いまや立場が全く違う。先刻も申しあげたとおり、支えてくださるホームタウンやファンの皆さまの他には頼れる存在など無いのです。浦和レッズはれっきとしたプロのフットボールクラブです。ホームタウンである浦和に継承されるスポーツ文化を、私たちや私たちを含む組織の都合などで変えてしまうことなど許されない。そのように考えております。

豊田:お話の旨、確認しました。URAWAに継承されるサッカーは、三菱とホームタウンが手を携え、時間をかけて醸成してきた宝です。いまの代表のお応えを基礎とし、この「URAWA TOWN MEETING」を媒介として、ホーム浦和と浦和レッズが膝を交える場が継続されることを希望します。

≪2012年3月7日 酒蔵 力 本店にて≫

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